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【現代でも十分通用】眼光鋭い幕末のイケメン10選

土方歳三コラ

幕末、20代~30代の偉人がたくさん活躍しました。
その中からイケメン10人を紹介します。
ちなみに上の土方歳三の写真は『コラ』です。
ネット上に出回っており、本物と信じている人も多いので要注意です。

土方歳三(ひじかたとしぞう)

土方歳三

言わずと知れた『新選組』の鬼の副長。
実戦では常に最前線で戦い、数々の修羅場を体験しながらも大きなケガはなく相当強かったようです。
この顔+当時としては長身(168cm)だったため、女性にたいそうモテていました。

京都へ行ってまもなく、故郷に大きな荷物を送りました。
受け取った弟子は「何かな?」と開けてみると、大量のラブレターが入っていて「モテモテですわ」と自慢したのは有名な話。
死後の今もモテモテですよね。
1869年(明治2年)5月11日、『戊辰戦争』(箱館五稜郭防衛戦)で腹部に被弾、馬上にて戦死。
享年35。

松平容保(まつだいらかたもり)

松平容保

会津藩の最後(第9代)の藩主です。
『京都守護職』として『新選組』を指揮し、京都市内の治安維持にあたっていました。
今でいう警察のトップです。
写真のとおり涼しげなマスクで、宮中に参内すると女官たちがそわそわしたといいます。
後年、日光東照宮の宮司となり、1893年(明治26年)2月5日、肺炎の為死去。
享年59。

横山常守(よこやまつねもり)

横山常守

会津藩の若年寄(家老に次ぐ役職)、上の松平容保の部下です。
『パリ万国博覧会』の使節団として、ヨーロッパを歴訪。
帰国後の1868年(慶応4年)6月20日、『戊辰戦争』中に被弾のため戦死。
享年22。

桂小五郎(かつらこごろう)

桂小五郎

長州藩藩士で吉田松陰(しょういん)に師事し、明治後は木戸孝允(たかよし)と名を変え、西郷隆盛、大久保利通と並んで『維新の三傑』と呼ばれ、明治初期政権の重要なポストにつきました。

剣豪としては相当な腕前でしたが、真剣を使った事はほとんど無く、変装してまで戦いを避けることから『逃げの小五郎』と呼ばれ、幕府のお尋ね者になった時は、乞食に変装して鴨川の川縁に潜むなど、徹底的に逃げに徹していました。
1877年(明治10年)5月26日、病没。
享年45。

 

渋沢平九郎(しぶさわへいくろう)

渋沢平九朗

『東京証券取引所』などを設立した明治の実業家渋沢栄一の養子。
1867年(慶応3年)5月23日、明治新政府軍との戦いの最中に深手を負い、もはやこれまでと観念し切腹。
享年22。

坂本龍馬(さかもとりょうま)

坂本龍馬

土佐藩郷士として裕福な商家に生まれる。
『海援隊』の結成や、『薩長同盟』の斡旋など、有名なエピソードが多数あり、説明不要の最も有名な幕末の志士です。
脱藩前の江戸遊学中に通っていた剣術道場桶町千葉道場の創設者の娘である千葉佐那と婚約関係になるも、後年、お龍と結婚します。

私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし父も『坂本ならば』と高知の坂本家に手紙を出したようでした。(中略)私は心を定めて良い縁談 をも断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月、三十一歳になっていた私は坂本さんが十一月十五日京都で暗殺されたことを知らされました」
出典:坂本龍馬 - Wikipedia

1867年(慶応3年)11月15日、京都の『近江屋』で刺客に額を深く斬られ、その他数か所を斬られて暗殺される。
享年33。

池田長発(いけだながおき)

池田長発

ヤンキーがコスプレしているのではありません。
旗本で外国奉行、備中国井原の領主。
相当頭が良く優れた人物だったようで、若干27歳にして『遣欧使節団』を率います。
その時にスフィンクス前で撮影された下記の写真が有名です。

遣欧使節団

1879年(明治12年)9月12日、病没。
享年42。

中村半次郎(なかむらはんじろう)

中村半次郎

薩摩藩士で、『人斬り半次郎』の異名をもち、『新撰組』は隊士に「薩摩の中村半次郎には決して関わるな。」とクギをさしていたほどの危険人物。
明治後は桐野利秋(きりのとしあき)と名を変え陸軍少将の職につきます。
非常にシャレていて、フランス製のオーダーメイドの軍服を着て、現在の価格に換算すると一千万円する特注の純金張の軍刀を愛用、フランス製の香水をつけ、当時珍しいシャボンで体を洗っていました。
1877年(明治10年)9月24日、『西南戦争』にて額を打ち抜かれて戦死。
享年40。

奥平昌邁(おくだいらまさゆき)

奥平昌邁

豊前中津藩主。
明治になって同郷の福澤諭吉が設立した『慶應義塾』に入学しアメリカに留学します。
しかし、アメリカでかかった病が元で、1884年(明治17年)11月26日、病没。
享年30。

桂太郎(かつらたろう)

桂太郎

長州藩士で、明治後は陸軍大将や大臣職を歴任。
叔父が吉田松陰と親友で『松下村塾』のスポンサーだった事が桂太郎のその後の出世に少なからず影響したようです。
愛妾お鯉とたびたび訪れた『松風閣』は大阪府箕面市の『箕面観光ホテル』内に桂別館として存在しています。
1913年(大正2年)10月10日、癌、脳血栓で死去。
享年67。