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【フルボッコ】歴史上初めて日本と中国が戦った『白村江の戦い』

History of Korea 576 ja

四方を海に囲まれた日本は大陸からの外敵と古くから戦ってきましたが、日本の方から大陸の敵に立ち向かっていった数少ない事例が『白村江(はくすきのえ)の戦い』です。

当時の朝鮮半島情勢

当時(7世紀)、朝鮮半島には『高句麗(こうくり)』『新羅(しらぎ)』『百済(くだら)』の3つの国が存在。

この3国は4世紀以降三つ巴の争いを繰り返していたのですが、618年に中国の王朝『唐』が成立すると3国にたいして朝貢(貢物を捧げる事)するよう呼びかけます。
3国は『唐』に使いを派遣、『唐』は3国を冊封体制に組み入れます。

中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。

出典:冊封体制(さくほうたいせい)とは - コトバンク

「3国仲良く唐の支配下」と思っていたら、642年、『百済』と『高句麗』はこんな密約を交わします。

朝鮮人1
『新羅』に内緒で同盟を組もう!
朝鮮人2
そうしよう!

同盟を密約した『百済』と『高句麗』は『新羅』へ侵攻、『新羅』は「裏切られた!」と親玉である『唐』に助けを求めます。
『唐』は勝手に密約を交わした事に怒り、『百済』と『高句麗』に侵攻を中止するよう命じますが・・・

朝鮮人1
我が国(高句麗)はかつて『新羅』から奪われた地域を奪回するまでは停戦しない!
朝鮮人2
我が国(百済)も『新羅』から奪い取った城を全て返還するように、と『唐』が言ってきたけど無視!

言う事を聞かない国はお仕置き、と『唐』は隣接する『高句麗』に侵攻。
しかし、『高句麗』は同盟国の『百済』や伝統的に友好関係にあった日本の援助もあり唐の3度に及ぶ侵攻を跳ね返します。
一方、『新羅』は『唐』の風俗や制度を積極に取り入れる『唐風化政策』をとって『唐』と友好関係を築きます。

百済滅亡

660年、『唐』と『新羅』の連合軍20万人が『百済』へ侵攻。
『百済』は滅亡します。
しかし、滅亡後も必死に鬼室副信(きしつふくしん)を中心に抵抗していた『百済』の遺臣達は日本に使者を送り、「百済が唐と新羅に滅ぼされ、王族が捕虜になった」と報告。
そして、日本に人質として滞在している「王子の余豊璋(よほうしょう)を王にたてて百済を再興したいから軍を派遣してほしい」と要請します。
※余豊璋は藤原氏の祖『中臣鎌足』の正体という説もあります。

なぜ、百済の王子が日本にいるのか?

日本は『百済』の南端に出先機関『任那日本府(みまなにほんふ)』を設置していましたが、過去に『新羅』が『百済』へ侵攻した際に『任那日本府』のある地域を占拠します。

日本人
『任那日本府』を返して。
朝鮮人3
いやだ。

日本と『新羅』の関係は悪化。
その後、上に書いたように642年の『百済』と『高句麗』の同盟軍が『新羅』を侵攻して、『任那日本府』のある地域を奪い返します。
日本は『新羅』に言ったように『百済』に『任那日本府』の献上を要求。

朝鮮人2
もちろん『任那日本府』はお返し致します。また、お返しする担保として我が国の王子である余豊璋を日本にお送りします。

『任那日本府』のみならず、人質も差し出すというのです。
※日本、百済同盟の担保としての意味もありました。

 

唐・新羅 VS 日本・百済遺臣

『百済』の要請を受け、「百済とは古くから付き合いがあるし、このまま放っておくと唐の圧力が日本に及びかねん」と女帝・斉明天皇(さいめいてんのう)は軍の派遣を決定。
自ら兵を率いて大和から2ヶ月以上かけて九州へ。
2人の息子、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と大海人皇子(おおあまのおうじ)も妻を連れて参加しました。
この時代、女性を戦場に連れていく事はタブーではなかったのです。

さて、九州から『百済』へ軍を向けようとした矢先に斉明天皇は病死してしまったため、皇太子である中大兄皇子が政務を引継ぎます。
『百済』へ武器と食料を送り、自らも軍を率い海を渡って『百済』で戦い、『新羅』を圧倒します。

『新羅』としては『唐』の援軍を待っていたのですが、『唐』は以前から『高句麗』と戦争状態にあり、そう簡単に駆けつける事ができませんでした。

戦況有利な日本だったが・・・

ここまでは日本有利な戦況でした。
日本は、その後も来るべき決戦に備えて武器、船、兵糧を準備。
そして、663年2月、『百済』へ3万人弱の兵を派遣。
これを知った『唐』も対抗して大軍を派遣します。

いざ一致団結して決戦、という時、『百済』に大きな痛手となる出来事が起こります。
百済復興運動の中心人物である鬼室副信が謀反の疑いをかけられ粛清されてしまいます。

敵の中心人物が殺された事を知った『唐』は、百済復興運動の本拠地である周留城(するじょう)に向かって大軍を派遣。
日本もさらに『百済』を救援するために1000隻を周留城がある錦江流域へ派遣します。
この河口は『白村江』とよばれていました。

白村江の戦い

百済王となり周留城にいた余豊璋は、日本からの援軍がこちらに向かっていることを知り、「白村江河口まで出迎える」といって城を出ました。
本人にとっては若い頃に20年以上過ごした日本に親しみを感じたうえでの行動だったのでしょうが、王が軽々しく城を離れる行為を目の当たりにした百済遺臣達は、鬼室副信が粛清された事に続いてさらに士気が低下してしまいます。

そして、日本の先着部隊が『白村江』に到着すると、たまたま『唐』の水軍と遭遇し海戦。
あっけなく敗れてしまいます。
翌日、全面戦争が勃発。
ここを突破しないと周留城へたどり着く事ができません。
数では上回っていた日本軍ですが、実態は小船を寄せ集めただけの船団。
一方、『唐』の水軍は最新技術の大型船で編成。
兵士も日本軍は豪族の寄せ集めで作戦も何もなく先陣を争って戦うだけでした。
その結果、日本軍の船は次々沈められ、炎が空を覆い、海は血で赤く染まったといいます。
日本は完敗し、亡命希望の百済人を船に乗せ帰還。

唐の報復を恐れる

帰国後、中大兄皇子は『唐』の報復を恐れ本土防衛に力を入れます。
日本に亡命してきた百済人の協力で、福岡県大宰府近くに大掛かりな壕を作りました。
これは、約600年後のモンゴル襲来で役立ちます。

そして、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)を置きます。

663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。

出典:防人 - Wikipedia

667年、防衛上の観点から奈良の飛鳥から滋賀の近江大津に遷都。
翌年天智天皇となりました。

さて、『唐』はというと、相変わらず『高句麗』と闘い続けており日本になんてかまっていられない状況でした。
『唐』は『白村江の戦い』から5年後に『高句麗』を滅亡させたのでした。