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【実はラブラブ】政略結婚で徳川家茂と結婚させられた皇女『和宮』

和宮

幕末、はた目には徳川家茂との政略結婚の犠牲となって悲惨な生涯をおくった、と言われる皇女和宮(かずのみや)。
しかし、様々な思惑から夫婦となった二人ですが、蓋を開けてみればとても仲の良い夫婦でした。

和宮

孝明天皇(明治天皇の父)の妹である和宮は、 わずか6歳で17歳の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。

有栖川宮熾仁親王

皇女の嫁ぎ先は、宮家、五摂家(近衛家、鷹司家、九条家、一条家、二条家)に限られており、この中から相手に巡り合えない時は生涯独身で過ごす(もしくは、尼になる)しかなかったので、和宮のこの縁談は非常に運がよい、と言われました。
当然、6歳では結婚できませんから、輿入れ(結婚)は和宮が15歳になってから、と予定されていました。

井伊直弼の暗殺

大老(将軍の補佐役)の井伊直弼(いいなおすけ)の強権的な政治は各方面から反感を買い、安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で暗殺されます(『桜田門外の変』)。

幕府
この暗殺をきっかけに反幕府勢力(尊皇派)の活動が活発になっている。非常にマズイ。

幕府は、『日米修好通商条約』の調印を巡って対立していた朝廷との関係を修復するため、そして、朝廷と結びついて政権を安定させるために『公武合体』(公=朝廷、武=幕府、諸藩)を画策します。
この公武合体の手始めとしてターゲットになったのが和宮でした。

婚約破棄

公武合体派の老中(大老の下の役職)安藤信正はこのような策を実現させようとしていました。

安藤信正
皇女和宮を将軍家茂の正妻として迎えたい。

安政7年(1860年)4月12日、安藤らは和宮の降嫁(こうか)を希望する書簡を朝廷に提出します。
当然ながらすでに婚約者がおり、都から離れた事のない和宮は家茂のいる関東に行く事など考えられず、この申し出をきっぱりと拒否しました。

しかし、どうしても朝廷の威光がほしい幕府はあきらめません。
とうとう、できもしない約束を和宮の兄である孝明天皇に約束します。

幕府
この降嫁が実現すれば攘夷を決行致します。

攘夷とは「夷人(外国人)を攘(はら)う」事。
孝明天皇は強烈な攘夷主義者で、日本から外国人を追い払いたいと熱望しており、この提案に心が揺らぎ、和宮の気持ちを確かめます。

和宮
降嫁するくらいなら、いっその事尼になります。
孝明天皇
そうか、致し方ない。寿万宮(すまのみや)を嫁がせよう・・・。

兄がまだ赤子である自分の娘を嫁がせる、と聞いた和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄し、将軍家茂の元へ嫁ぐ事を決断しました。

輿入れ

文久元年(1861年)の秋、和宮は輿入れのため江戸に下ります。
花嫁行列はなんと50kmにもおよび、花嫁行列の護衛に12藩、沿道の警備には29藩も動員されました。

和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれた。

出典:和宮親子内親王 - Wikipedia

翌年2月11日、同い年(17歳)の和宮と家茂は婚儀あげました。

思わぬ幸福の日々

家茂は、政事総裁職の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)にこう言っています。

徳川家茂
公武合体は和宮を心から愛して大切にすれば自然にうまくいくよ。

このようなとても優しい家茂に、和宮は心底惚れていったようです。
(家茂は側室をおかず和宮を生涯の伴侶としていました。)

家茂は少しでも時間ができれば和宮と雑談をかわし、かんざしや金魚などを贈り、和宮も家茂が好きな茶菓子をよく差し入れたようです(家茂は甘いものが大好きで、31本中30本の歯が虫歯になるのですが・・・。)

和宮の側近は、このような仲むつまじいエピソードを日記に記録していました。

たった4年で終わりを迎えた結婚生活 

蓋を開けてみると思わぬ幸福の日々を送っていた二人。
しかし、そんな幸せな日々は長続きしませんでした。
世は幕末。
家茂はたびたび上洛(京都に行くこと)し、困難な政局に対応するなかで神経を擦り減らし、健康を害していきます。
そして、慶応2年(1866年)5月16日、『第二次長州征討』のため大坂城にいた家茂は、脚気(かっけ)にかかって危篤に陥り、死去してしまったのです。
21歳という若さでした。
結婚生活はたった4年でしたが、家茂の上洛した期間を引くと実質2年程の結婚生活でした。

西陣織

慶応2年(1866年)9月6日、家茂の遺骸が江戸城に戻りました。
この時、和宮は家茂の側近から西陣の織物を手渡されます。

徳川家茂
凱旋の土産は何がよい?

上洛の前、家茂は和宮に京都土産は何がよいか聞きました。
和宮は西陣織をねだりましたが、残念ながら家茂から直接手渡される事はありませんでした。

元婚約者が敵の総大将に

慶応4年(1868年)、朝廷、薩摩藩、長州藩を中心とした新政府軍と幕府軍が衝突します(『戊辰戦争』)。
戦局有利な新政府軍は、幕府勢力討伐のために江戸へ進軍しますが、なんと、新政府軍の総大将は、かつて婚約者だった有栖川宮熾仁親王だったのです。
この時の和宮の心境は複雑だったに違いありません。

江戸城無血開城

新政府軍は江戸城へ攻め込もうとしましたが、新政府側の西郷隆盛と幕府側の勝海舟の会談によって、戦いになる事なく江戸城が開城しました。
この会談に至るまでに、天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)が故郷である薩摩藩を説得、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)が西郷と面会、など様々な要因があって無血開城となったのですが、和宮も朝廷に対して「江戸城を攻撃するのであれば、城と命運とともにする」と、徳川家の人間として嘆願書を差し出し、その結果、徳川家の存続が認められました。

明治維新後

和宮は家茂の養母である天璋院篤姫と、いわゆる嫁と姑の関係、そして公家と武家の文化の違いなどから衝突する事があり仲がよくありませんでした。
しかし、和宮と家茂の仲むつまじい様子を見るにつれ、徐々に打ち解けていったようです。

明治維新後、和宮は一旦京都へ里帰りしますが、5年後に東京へ移住しました。
東京へ移住してからは徳川家の人達と盛んに交流し、ある時、天璋院とともに勝海舟邸を訪れ、昼食をとります。

天璋院篤姫
ご飯よそいますよ。
和宮
いえ、私がよそいますよ。
天璋院篤姫
いいのよ。
和宮
いえいえ、私が。
勝海舟
・・・もう一つしゃもじを持ってきたので、お互いの茶碗にご飯をよそったらいいじゃないですか・・・。

家茂の死去から11年後の明治10年(1877年)9月2日、家茂と同じく脚気のために死去。
享年32。
「家茂のそばに葬ってほしい」という遺言とおりに、東京都港区の増上寺に葬られました。
となりは家茂の墓所です。

和宮が抱いていた写真

1950年代、再開発のため増上寺の徳川家墓所が移転される事になりました。
同時に徳川家の遺骨調査が行われたのですが、和宮はあるガラス版の写真を抱くように葬られていました。
その写真に写っていたのは烏帽子と直垂(ひたたれ)姿の若い男性。
現場には発掘調査員しかいません。
後日、写真の専門家へ依頼しようと思ったのでしょうか。
そのガラス版写真を台の上に立てかけて置いていたところ、翌日には写真の膜面が消失して単なるガラス版になってしまっていたのです。

写真に写っていたのは、夫である家茂だったのでしょうか?
それとも、元婚約者であった有栖川宮熾仁親王だったのでしょうか?