多数の逸材を輩出した『松下村塾』生の中でもトップクラスの秀才で、外見も良くモテモテだった久坂玄瑞(くさかげんずい)。
大師匠の妹との結婚を「ブスだから」と断ってしまう程の恵まれたモテモテっぷりを紹介します。
スペックの高さ
この記事冒頭の肖像画を見てみなさん思ったでしょう「凛々しいけど言うほどイケメンでは・・・」。
実は、この肖像画は息子の秀次郎をモデルにしているんです。
実際、本人がどれほどのイケメンだったかは写真が残っていないのでわかりませんが、今に言い伝えられている内容からどれだけスペックが高かったのか紹介します。
外見
やや右目は眇め(軽斜視)ではあるが、色白の好男子であったという。初めて松陰を訊ねた折、妹のお文は彼の美僧を思わせる容姿を見て「お地蔵さん」というあだ名をつけたという。
出典:http://www.geocities.jp/hamagurinet/ituwa.htm
「お地蔵さん」がはたしてイケメンなのかどうかはわかりませんが、たぶん『しょうゆ顔(死語)』(今は『塩顔男子』と言うそうです)だったのでしょう。
身長は六尺(約180cm)ほどの長身
出典:久坂玄瑞 - Wikipedia
今でもなかなかの高身長ですが、当時の日本人男性の平均身長は155cm~158cmといわれていますから、今の感覚だと190cm超といったところでしょうか。
内面
16歳になった頃には、早くも玄瑞の秀才の英名は萩城下の内外に知れ渡っていた。
出典:久坂玄瑞 - Wikipedia
吉田松陰(しょういん)は「防長第一流の人物たり、因って亦、天下の英才たる」とベタ褒めしていました。
声が大きく美声であったという。
出典:久坂玄瑞 - Wikipedia
周旋役(外交官)だった玄瑞は役職上藩費をいくらでも使えたので、遊びぶりがド派手だったようです。
金払いが良いので芸妓達にモテモテでしたが、おまけに長身でイケメン、詩吟の際に披露する美声も相まって、道を歩くだけで芸妓が騒ぎ出し、今で言うアイドル並みにモテていたようです。
久坂が詩を吟じながら鴨川を歩くと、河畔の店から女性たちが顔を出して長州の久坂さんだ、と騒然となったという話も残っています。
出典:吉田松陰の妹に愛された志士「久坂玄瑞」と涙のストーリー | 日本の歴史を学び、現代社会に活かす歴史キュレーションサイト
ちなみに、玄瑞の詩吟は『久坂流』として今に伝えられています。
松下村塾でもトップクラス
松陰が主宰した『松下村塾』は多数の人材を輩出しましたが、その中でも高杉晋作と玄瑞は「識の高杉、才の久坂」と言われ、トップクラスの評価を与えられていました。
【全て実話】まるで漫画のヒーローのようにイカしている『高杉晋作』のエピソード
西郷隆盛は明治維新後に長州藩出身の人に向かって「お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんがなア」と、若干ヨイショしている感はありますがホメちぎっています。
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吉田松陰の妹『文』が好みの容姿ではない、と一度結婚を断る
写真は晩年のものなので、若い頃はブスだったのか、玄瑞の理想が高すぎたのかはわかりませんが、『松下村塾』の最年長者である中谷正亮(しょうすけ)が持ちかけた松陰の妹『文』との結婚を「ブスだから」と断ります。
結局、「容色を問うのか」と言われてカっとなり、その日のうちに縁談を承諾しました。
1864年(元治元年)7月19日、『禁門の変』にて自刃。享年25。
禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。
出典:禁門の変 - Wikipedia
ちなみに、肖像画のモデルとなった息子の久坂秀次郎は、玄瑞と愛人井筒タツの子として、玄瑞自刃後の2ヵ月後に誕生します。
明治、大正、昭和をサラリーマンとして生き、1932年(昭和7年)に67歳で逝去しました。