幕末、京を治安を守るために結成された『新選組』。
近藤勇、土方歳三、沖田総司を始め、多くの幹部は非業の死をとげますが、明治後も生き抜いた幹部もわずかにいました。
その中でも一説には沖田総司以上の剣術使いと言われた永倉新八。
彼は若い頃はもちろん、老人になっても一貫して豪胆な人物でした。
新選組での活躍
『新選組』の阿部十郎は、剣術の腕は沖田総司よりも永倉新八の方が上だったと言っています。
しかし、当の永倉は弟子にこう言っていました。
誰が一番強いかはわかりませんが、永倉、沖田、斉藤がトップ3だったのでしょう。
池田屋事件
1864年(元治元年)7月8日、池田屋事件が発生。
京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
出典:池田屋事件 - Wikipedia
池田屋に潜伏していた尊皇派志士20数名を発見した『新選組』は、近藤勇、沖田総司、藤堂平助、永倉の4人で踏み込みますが、戦闘中、沖田は喀血(肺結核)、戦線を離脱します。
また、藤堂も額を切られた際の血が目に入ってしまって戦闘不可となり戦線離脱。
一時、近藤、永倉 VS 20数名の尊皇派志士、という状況に。
永倉も左手の親指に深い傷を負い、防具もボロボロ、刀も折れてしまいますが、落ちていた刀を拾って戦い、なんと4人を討ち取ります
その後到着した土方歳三率いる隊が到着し、鎮圧に成功、いっきに『新選組』の名が知れ渡りました。
非行五ヶ条
『新選組』が力を持ち出すと、局長の近藤は同士を家来のように扱う、言う事を聞かないと剣を抜く、など増長します。
こういった近藤の振舞いに憤った永倉ら6人は、近藤の非行を5つの箇条書きにして『新選組』の後ろ盾であった会津藩の藩主、松平容保に訴えます。
元々友人のような対等な関係だったのに、近藤が次第に増長し、まわりを見下すような態度をとったのが許せなかったのでしょう。
しかし、容保は訴えを理解しつつも、こう言います。
『新選組』を解散すると容保にも迷惑がかかると思った永倉らは訴えを取り下げました。
※『非行五ヶ条』は実在した、とされてはいるものの、内々に処理されたので記録は残っていません。
血気盛んなおじいちゃん
『戊辰戦争』で会津藩が降伏したと知った永倉は松前藩に自首。
大叔母が松前藩主の愛妾だった、という事もあってか寛大な処置で松前藩士として取り立てられました。
1873年(明治6年)、北海道小樽へ移住し、1882年(明治15年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範となって看守に剣術を指導。
当時の看守は、囚人が脱走するとサーベル(剣)を抜いて追いかけていました。
退職後は東京で剣術道場を開きます。
55歳で抜刀隊に・・・
1894年(明治27年)、『日清戦争』が勃発します。
日本が初めて体験する本格的な対外戦争という事もあり、日本全国から義勇兵(金銭的な見返りを求めず自発的に戦闘に参加する兵)の志願が相次ぎました。
55歳になっていた永倉も志願します。
しかも刀一つで敵陣に飛び込む抜刀隊に。
さすがに「お気持ちだけ・・・」と体よく断られると、こう捨て台詞をはきました。
ヤクザを一喝
映画が好きで、孫を連れてよく映画館に通った永倉。
ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれますが、凄まじい眼力と一喝で退散させた、という伝説も。
ついつい稽古をしてしまい・・・
最晩年(70歳頃)、「あの永倉新八が生きている」との噂を聞きつけた東北帝国大学農科大学の剣道部員が「ぜひ指導してほしい」と剣術指導を依頼してきます。
家族は「高齢なんだからヤメときなさい」と止めますが・・・。
しかし、教えているうちに血が騒いだのでしょうか、思いっきり稽古して体を痛めてしまい、馬車に乗せられ学生に抱きかかえられて自宅に帰ってきました。
新選組が誇り
永倉が『新選組』時代に7回ケガをした事を書き留めた覚書七ヶ所手負場所顕ス。
孫が大きくなったら見せるつもりで、いつ、どこで、どのような戦いで傷を負ったか、を自身が73歳の時に書いたものですが、それだけ『新選組』を誇りに思っていたのでしょう。
お酒に酔うと褌一枚になって、『新選組』時代に負った古傷を叩きながら・・・
と、気勢を上げていました。
「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らないんじゃ」と一生を剣術に捧げた永倉新八。
1915年(大正4年)1月5日、虫歯の重症化による感染症で死去。享年75。