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【琉球】歴史を紐解けば日本『だけ』が統治した期間はそう長くない沖縄県

首里城

沖縄県といえば、独特の食文化や生活習慣、そしてたびたび日本からの独立がニュースになります。
なぜこのような主張が出てくるのか、歴史を紐解けば沖縄県民のアイデンティティーが少しは理解できるのかもしれません。

元々『沖縄』は日本ではなかった?

沖縄県は、その昔『琉球王国』と呼ばれていました。

子供
「王国」って事は、昔は日本の一部ではなく独立した国だったのですか?
先生

まず「琉球」というのは中国が呼称する国号で、中国の皇帝から賜った国名なんだよ。
(当時の人は「琉球王国」ではなく、「琉球國」と呼んでいました。)

子供
じゃあ、中国の支配下にあったのですか?
先生
いや、中国は自分の国の皇帝を頂点とし、周辺は野蛮人の国だ、という「華夷秩序(かいちつじょ)」という考え方をもっていたんだ。
もちろん、この考え方だけでは周辺の国はなびかないけど、当時の中国は軍事、経済の面で超大国で、中国にヘコヘコしておけば当時の国際社会で権威を高め、安全を保てる、という実利があったんだ。

先生
琉球はこれにのっかり中国に忠誠を誓う見返りとして、国名を賜り、「王」という称号をいただき、航路の安全も保障され貿易で経済的にも潤い、そして自分達で大きな軍隊をもつ必要もなくなったんだ。何かあれば中国が守ってくれることになっているからね。

子供
じゃあ、やっぱり独立した国じゃないんじゃ・・・。
先生
何をもって独立というのか難しいね。
ただ、明治初期までは現在のように日本の「一地方」だった、という事はないね。
という事で、琉球が日本の一地方に組み込まれるまでの歴史をみていきましょう。

あいまいだった『琉球』の統治

1429年(天正18年)、尚巴志(しょうはし)が琉球を統一し王国『琉球國』を成立させます。

朝鮮出兵

16世紀後半、豊臣秀吉は『琉球國』にある要請をします。

豊臣秀吉
今度、明と朝鮮に出兵するから、『琉球國』からも兵を差し出せや。

しかし、『琉球國』は当時中国大陸を制していた『明』の冊封(さくほう)国でしたので、この要請を拒否します。
冊封を凄く簡単に言うとジャイアン(明)とスネオ(琉球國)の関係です。
ただ、結局は日本軍が朝鮮に出兵した際に食料を提供するなど日本軍の兵站の一部を担い、協力的な態度をとります。

琉球征伐

1602年(慶長7年)、仙台藩の領内に琉球船が漂着します。

徳川家康
国もとへ返したれ。

徳川家康は漂流した琉球の人達を『琉球國』に送還します。
その後、幕府は『琉球國』に対して家康へお礼に来るよう謝恩使の派遣を再三要求しますが、『琉球國』は一向に応じません。
家康はしびれを切らします。

徳川家康
『琉球國』は失礼だ。征伐せい!

家康は薩摩藩(現在の鹿児島県)に琉球征伐を指示、結果的に『琉球國』は薩摩藩に間接的に支配にされ、従属国になります。
この時点で、『琉球國』は日本、中国両属の体制を維持していました。

国際社会に琉球を日本の領土と知らしめた台湾出兵

1874年(明治7年)、台湾に漂着した琉球島民54人が現地人に惨殺されます。
当然、日本政府は『日本国民』が殺害されたことで台湾を統治していた『清』に抗議します。

日本国旗
貴国が統治している台湾が日本国民を54人も殺害した。当然賠償してもらいます。
清国旗
いや、台湾は『化外の地』です。だから、賠償する義務はありません。

『化外の地』とは、正式に『清』の領土ではあるけれども、地理的に遠く、文化も及ばないので、きっちりと統治できない。
「経済開発するほど意欲はないけど、(清への)反対勢力がここを拠点に活動するのを防ぐくらいの関心はもっているよ」ということです。
もちろん、日本政府と国民が納得するはずがありません。
「台湾はけしからん。軍隊を動員して制裁だ!」という声があがり、台湾出兵の準備を開始します。
ただ、政府内では出兵に反対する意見があり、日本軍は長崎で待機していました。
しかし、長崎で待機していた陸軍中将の西郷従道(つぐみち)(西郷隆盛の弟)が突如行動します。

西郷従道
待ってられん!出兵しもそ!

台湾上陸後、戦争というよりも小競り合いがちょろちょろとあり、日本側は戦死者12名(マラリアによる死者561名)を出します。
その後、事態収拾(本格的な戦争回避)のため大久保利通(としみち)が『清』へ赴きます。
大久保は外国人法学者を顧問として同行させ、国際法を盾に『清』とすさまじい交渉をします。
結果的に、大久保は『清』から「日本が台湾に出兵したのは自国民が殺害されたことによる義挙である」という言葉を引き出しました。
これは、清が琉球民は日本国民である、という事を認めたことになり、琉球は日本の領土である、という事が国際社会に承認されたかたちになりました。
しかし、琉球内ではいまだ『清』に対して貢物を送り、日本、中国(清)両属の体制をとり続けていました。

 

『沖縄県』誕生

1879年(明治12年)、政府は数年前から琉球に対して「清国への貢物の献上をやめろ」などと求めていましたが拒否され続けていた為、首里城に軍隊、警察官を送り込み強制執行しました。
これにより、日本と清国との両属関係が解消されることになりました。
同年4月4日に琉球藩が廃止され沖縄県が誕生し、正式に日本の『県』となりました。

独立肯定派の沖縄の新聞

以上のことから、純粋に日本だけが統治してした期間はそう長くない沖縄ですが、面白いことに沖縄本島で流通している新聞は『琉球新報』『沖縄タイムス』の2紙だけで全体の99%を占めているのです。
この2紙は、沖縄独立肯定派の新聞として有名で、創立者を見るとなるほど、と思ってしまいます。

琉球新報

首里出身の尚順、高嶺朝教、太田朝敷ら旧支配層によって創設。

出典:琉球新報 - Wikipedia

尚順は、最後の琉球国王・尚泰王の四男。

出典:尚順 - Wikipedia

 

沖縄タイムス

沖縄朝日新聞を中心とした社員10人のうち9人

が創設メンバー。 

出典:沖縄タイムス - Wikipedia

両紙の創設者を見ると、論調が独立肯定派になるのはなんとなくわかるような気がしますね。

まとめ

沖縄県が純粋に日本だけの統治になってからの期間は、1879年~1945年の66年間、25年間の米軍の施政権下を経て、1972年~現在、の合計100年強です。
なぜ、独立の主張や政府への不満がたびたび出てくるのか、現在の沖縄県が置かれている米軍基地などの問題、それに繋がる歴史的な背景を踏まえた上で考える必要があると感じました。