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【これが史実】西郷隆盛が歩んだ歴史をわかりやすく解説するよ《幕末編》

 西郷隆盛

2018年に放映されたNHK大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』では、西郷隆盛が幼少の頃に薩摩藩主の藩主島津斉彬(なりあきら)と出会う、後に妻となる糸子と幼馴染み、京都の清水寺の僧・月照とボーイズラブの関係、など、史実とは異なるエピソードが多々ありました。
ドラマとしての楽しみはもちろんありますが、一度史実も確認されてはいかがでしょうか。

幼年~少年期

1827年(文政10年)12月7日、西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の子として誕生。
家族は父母、祖父母、弟3人、妹3人の11人家族、しかも父親は下から数えて2番目の下級武士でしたので非常に貧しい家庭でした。

ある時、近所の友達と一緒に遊んでいた西郷は泣きながら帰宅。

西郷隆盛
これで虫捕れないよ~!

周りの子が虫捕り網を持って走り回っている中、木の臼を抱えて走り周り、虫が捕れないと泣いている西郷を見て母親は「この子はおかしいんじゃないか」と真剣に悩んだようです。
馬鹿と天才は紙一重と言いますが・・・。

13歳の頃、仲間の喧嘩の仲裁に入った際、相手に右ひじを斬られてしまった後遺症で完全に右ひじを曲げる事ができなくなってしまいます。
刀を思うように振れなくなってしまった事から武道への志を捨て、「学問で身を立てよう」とよりいっそう思うようになりました。

郷中

さて、西郷の生まれ育った薩摩藩には『郷中(ごじゅう)』とよばれる教育法がありました。
集落ごとに以下のような4つのグループを編成し、それぞれグループ内の先輩が後輩に勉学や武道を指導して優れた武士を育成する、という教育法でした。

小稚児(こちご) 長稚児(おせちご) 二才(にせ) 長老(おせんし)
6歳~10歳 11歳~15歳 16歳~25歳 妻帯者

稚児は早朝、一人で郷中内の教えを請いたい先生(二才や長老)の家に行きます。
そして「〇〇を教えて下さい」と言うわけです。
「先生を誰にしよう?」「何を教えてもらおう?」は、子供が勝手に選んでもよいシステムでした。
学び終えて帰宅した後は朝食まで復習し、朝食が済むと神社の境内などの広場に集まって相撲などをして身体を鍛えます。
午後になると共に誘い合って先輩の家に行き、「今日はこういう事を学んだ」と早朝に学んだ事を各自が発表し、議論します。
その後は、稽古場で武芸の稽古を行いました。
長稚児は、夕方になると二才達が集まっている家に行き、二才から武士の子としての行いなどについて厳しく教育を受けました。
このように薩摩藩の武士の子供は、同じ年頃や兄世代と一緒に勉学や武道に勤しみました。
ちなみに西郷がいた集落は加治屋町という所ですが、司馬遼太郎は加治屋町についてこう言っています。
「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである。」
以下は同時代の加治屋町出身の軍人、政治家の一部です。

氏名 最終階級
西郷隆盛 陸軍大将
大久保利通 内務卿
西郷従道(西郷の実弟) 元帥海軍大将
大山巌(西郷の従弟) 元帥陸軍大将
井上良馨 元帥海軍大将
東郷平八郎 元帥海軍大将
山本権兵衛 内閣総理大臣

西郷は加治屋町で大久保利通ら仲間たちと共に学び、成長していきます。

 

青年期

1844年(弘化元年)、16歳の西郷は『郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)』に任命されます。
4人に1人は武士、と言われるほど他藩に比べて武士が多かった薩摩藩は、ある程度の年齢になると家計を助けるために低い役職に就けさせる慣習がありました。
ただ、いきなりメインの役職に就くわけではなく、役職に『助』がついている事からもわかるように補助的な役割、つまりアルバイトのようなものでした。

1847年(弘化4年)には、下加冶屋町郷中の二才頭(にせがしら)となります。

お由羅騒動

薩摩藩主の島津斉興(なりおき)には、長男の島津斉彬と、側室のお由羅の子である島津久光(ひさみつ)がいました。
※久光は斉彬の異母弟。
通常であれば長男である斉彬が次の藩主となるのでしょうが、斉興は斉彬が40歳になっても家督を譲ろうとはしませんでした。
40歳になってもニートという異常事態でしたが、斉興には斉彬に家督を譲らない理由がありました。

島津斉興
斉彬は祖父重豪(しげひで)の影響を強く受けている。

斉彬は(斉彬からみて)曾祖父で第8代藩主の島津重豪の影響を強く受けていました。
重豪はいわゆる『蘭癖大名』で、ローマ字を書き、オランダ語を話せました。
しかし、蘭学趣味が高じて公金を湯水のように使って藩財政を窮地に陥れてしまいます。
藩は商人を脅迫して藩の借金を250年の分割払いにさせたり、琉球を通じて清と密貿易をするなどして、強引ながら藩財政の黒字化に成功します。

島津斉興
西洋技術の導入に熱心な斉彬に家督を譲ると、また藩財政が赤字になってしまうのではないか?

久光派もこの事を理由に「久光様こそ藩主に!」と運動し、斉彬派 VS 久光派の薩摩藩を二分する抗争になってしまいます。
そんな中、お由羅が斉彬を呪詛したという噂が広がり、実際に斉彬の子がわずか5歳で亡くなってしまった事から斉彬派は激怒。
お由羅と久光の暗殺を計画するも久光派にバレてしまい、首謀者13名の切腹、約50名が謹慎や遠島処分となってしまったのでした。

切腹を命じられた13名の中に赤山靭負(あかやまゆきえ)という人がいました。
西郷隆盛の父、西郷吉兵衛は赤山の切腹に立ち会います。
父は赤山の形見として持ち帰った血染めの肌着を西郷に与え、西郷はその生き様に深く共感しました。
そして、この事件はその後の西郷と久光の関係に影響していきます。

島津斉彬が藩主に

お由羅騒動で処分された斉彬派は急激に勢力を弱めてしまいますが、斉彬自身は藩主になる事を諦めていませんでした。

島津斉彬
清との密貿易の件を幕府で取り上げてもらい、父とその側近を政治的に追い詰めるしかない。

アジア各地が次々とヨーロッパ諸国の植民地になり、日本への脅威が迫っている中、日本のために自らの手腕を生かしたいと思っていた斉彬は、藩が秘密に行っている密貿易を幕府にバラし、父である斉興と側近の責任問題にして失脚させる考えでした。
場合によっては、薩摩藩自体の存続に関わる、まさに諸刃の剣の危うい行動でしたが、斉彬の読みは見事に当たって父の斉興を隠居させ、側近を処罰する事に成功。
1851年(嘉永4年)2月2日、斉彬は薩摩藩第十一代藩主に就任しました。
1852年(嘉永4年)、西郷は伊集院須賀と結婚します(後に離婚)。

 

表舞台へ

藩主に就任した斉彬は、早速薩摩藩の近代化に取り掛かります。
日本最初の蒸気船『雲行丸』の建造、日本初の紡績工場『鹿児島紡績所』の建造、今日『薩摩切子(さつまきりこ)』として有名なガラスの製造や、電信機、ガス灯、反射炉、溶鉱炉の設置、そして写真の研究では日本で最も早く写真に写ったり、と様々な近代事業を施しました。

島津斉彬

1857年(安政5年)日本で最も早く撮影された島津斉彬の写真

斉彬は、同時に新たな人材を発掘するために藩士に向けて藩政への意見書を募りました。
西郷は何度も意見書を提出し、やがて斉彬の目にとまります。
そして、側近から西郷が下加冶屋町郷中の二才頭として、思想を同じくする二才達が集まった『誠忠組(せいちゅうぐみ)』というグループの首領格で人望が厚い事も聞いていたのでしょう。
後年、西郷は次のように語っています。

西郷隆盛
自分が抜擢されるに至った経緯は詳しく知らないが、あるいは提出した意見書が斉彬公の目にとまったのかもしれない。

1854年(安政元年)1月、西郷は斉彬の江戸出府の供に加えられて江戸へ行くことになります。
この時26歳でした。

江戸勤務

さて、江戸の薩摩藩邸で勤務する事になった西郷。
当時は封建制。
身分の低い者が簡単に身分の高い者と直接会話する事は許されませんでした。
しかし、斉彬は西郷を高く買い『庭方役(にわかたやく)』という役職を与えます。
表向きは庭の手入れをする役割ですが、実際は斉彬が庭に行くと偶然西郷がいた、という"テイ"で、面倒な手続きをふまなくても下級藩士の西郷と藩主の斉彬は直接会話を交わす事ができました。
斉彬の側近が「西郷と話している時は、たばこ盆を叩く音がいつもと違い機嫌が良いようだ」と言ったくらい、西郷と斉彬は身分を超えて意気投合したそうです。

島津斉彬
この頃大変良いものを手に入れた。 それは中小姓を勤めていた西郷吉之助(隆盛)という軽い身分のものであるが、なかなかの人物と認める。 どうか一つ交際して、以後引き立ててもらいたい。よろしく頼み入る。

斉彬はこのような事を、当時天下に名を馳せていた水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)、越前福井藩の橋本左内(はしもとさない)に話し、やがて西郷は両人と交流、次第に西郷の名が志士達に知られていくようになります。

 

将軍継嗣問題

1853年(嘉永6年)、ペリーが黒船で来航、圧倒的な武力を背景に日本に開国を要求します。

ペリー
捕鯨の補給拠点として日本は最適デース。

当時、産業革命で技術的に進んでいた欧米諸国は、機械用の潤滑油や灯火用の燃料油で鯨油を盛んに消費していました。
日本周辺の海は鯨の好漁場として知られ、アメリカは捕鯨船の補給基地として日本に開国してほしかったのです。
また、アメリカに続けとロシア、イギリスといった他の国も武力を背景に日本に開国を要求しますが、幕府はその場しのぎの対応で相手国の要求を受け入れ、不平等条約を締結してしまいます。

島津斉彬
この国難にあたり強力なリーダーシップを発揮する人物が必要だ。

当時の将軍、徳川家定(いえさだ)は病弱で到底この国難に立ち向かえませんでした。
病弱に加えて脳性麻痺であった、とも言われており、家定に謁見したアメリカの外交官タウンゼント・ハリスも、家定の様子について日記にこのように書いています。

タウンゼント・ハリス
家定は言葉を発する前に頭を後方に反らして足を踏み鳴らした。

これは、典型的な脳性麻痺の症状です。

この国難に対処すべく、斉彬は英明と言われていた水戸徳川家出身で一橋家の当主である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に次の将軍になってもらおうと考えます。
同じ考えをもっていた老中の阿部正弘、土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主の伊達宗城などと連携し、慶喜を次の将軍に就任させようと運動、また、斉彬の養女で家定の正室である篤姫も、大奥で慶喜を推すよう運動します。

そして、西郷も斉彬からの指示を受け、慶喜を将軍にすべく運動しました。

井伊直弼の大老就任

しかし、一橋慶喜推しの改革勢力が現れると保守勢力が対抗します。
保守勢力の中心人物は紀州藩家老の水野忠央(みずのただなか)。

水野忠央
一橋様よりも紀州様(徳川慶福)の方が家定様と血筋が近い。

水野は血統の面から、家定と従弟である紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ)を次期将軍にすべく運動します。
また、慶喜の実父で前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、女性に対してのセクハラや、大奥の浪費に対して否定的であった事から、大奥から大変嫌われていました。

一橋派 南紀派
改革 保守
一橋慶喜 推し 徳川慶福 推し
水戸徳川家出身 紀州徳川家出身
英明 血筋が良い

大奥を味方につけた南紀派はとどめの策を打ち出します。
それは、彦根藩主の井伊直弼(なおすけ)の大老就任でした。

江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。
出典:大老 - Wikipedia

井伊は大老就任後、強権を利用して南紀派優位に政治を動かし、徳川慶福を次期将軍に内定させます。
直後に家定が35歳で亡くなったため、慶福は徳川家茂(いえもち)と名を改め、江戸幕府第14代将軍となりました。

斉彬死去と西郷の自殺未遂

井伊の強引な政治手法に我慢ならない斉彬は、薩摩から5000人の兵を率いて京都に入り幕府に政治改革を迫る計画をたてます。
しかし、1858年(安政5年)7月16日に50歳で急死。
(当時の状況から毒殺されたという説も・・・。)

突然の訃報に西郷は大ショックを受け、「薩摩に帰って斉彬公の墓前で切腹しよう・・・」と、殉死する事を考えましたが、西郷と親交のあった京都清水寺の僧月照(げっしょう)は早まらないよう西郷を諭しました。 

そんな中、井伊は幕府に批判的な大名、公卿、志士などの弾圧に乗り出します。
世に言う『安政の大獄』です。
月照は、薩摩藩と朝廷の橋渡し役という反幕府的な活動をしていたために追われる身に。
西郷は月照を薩摩藩で匿おうとしますが、斉彬亡き後の薩摩藩の事情はすっかり変わっており、幕府ともめ事を起こしたくない藩は月照を厄介者扱いします。
月照は死を覚悟し、義理堅い西郷も見捨てる事ができず、1858年(安政5年)11月16日、西郷と月照は一緒に冬の鹿児島錦江湾に入水しました。

 

奄美大島に潜居

錦江湾に入水した西郷と月照はすぐに同行者に引き上げられますが、月照は死亡、西郷は奇跡的に助かります。
藩は西郷の墓をこしらえ、幕府の捕吏に「西郷は死亡した」と説明、西郷自身は菊池源吾と名を変えて1859年(安政6年)1月に奄美大島に潜居します。
奄美大島では、薩摩にいる大久保利通といった同志達と書簡をやり取りして情報入手に努めるなどの日々を過ごし、この年の11月には現地の女性愛加那(あいかな)と2度目の結婚をし、一男一女をもうけます。

桜田門外の変

1860年(万延元年)3月3日、強権的な政治を行っていた大老の井伊直弼が江戸城桜田門外で白昼堂々テロにより殺害されました(『桜田門外の変』)。
この事件を機に幕府の力は急速に衰えていき、幕府だけで政権を運営していく事が困難に。
幕府は朝廷と互いに協力して政権を運営していく『公武合体』に方針を転換します。

朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。

出典:公武合体 - Wikipedia

このような状況の中、斉彬亡き後の薩摩藩の藩主に側室のお由羅の子である久光の息子、島津忠義(ただよし)が就任。
※島津忠義は平成天皇(明仁)の曾祖父にあたります。

しかし、忠義は若干18歳だったため、実権は次第に父親の久光が握っていきます。

島津久光
上洛して幕府に政治改革を迫るぞ。

久光は斉彬と同じく兵を率いて京都に上り、幕府に政治改革を迫ろうと考えていました。

奄美大島より西郷召喚

西郷が奄美大島にいる間、西郷に代わって同志達のリーダー的存在となっていた大久保利通は、自分達のグループが藩政に参加して影響力を持つにはどうしたらよいか考えていました。

大久保利通
実権を握りつつある久光様に近づこう。

大久保は、息子の忠義に代わって実権を握りつつあった久光に近づこうと、久光の好きな囲碁を覚え、そして囲碁を通じて久光に接近していきます。
やがて久光に登用された大久保は、久光の上洛計画について「西郷の力が必要です」と進言。
元々、西郷は斉彬の時代に同じ計画で働いていたためノウハウがあり、また、京都で顔が広かったため久光は西郷の召喚にOKを出します。
1862年(文久2年)2月12日、西郷は約3年ぶりに鹿児島の地をふみました。
そして、久光に謁見します。
しかし、ここで後年まで長く続く確執の発端となる出来事が起こります。

西郷隆盛
御前ニハ恐レナガラ地五郎。

地五郎とは田舎者という意味で、「久光は(藩の実権を掌握してはいるが藩主ではなく)無位無官で、斉彬に比べて人望もないし、京都に入っても混乱の元になる。また、そもそも田舎者なので京都での周旋は無理」と、西郷は激しく主張したのです。
一藩士である西郷にこのように言われた久光は激怒。
久光の上洛計画を実現させようと奔走していた大久保は焦り、根気よく西郷を説得。
西郷は態度を軟化させ、計画に協力する事を大久保に約束します。

西郷捕縛

島津久光
先発して肥後の形勢を視察し、下関で行列の到着を待て。

1862年(文久2年)3月13日、久光の命を受けた西郷は同志の村田新八と共に先発します。
下関についた西郷は、予想以上に激しい情勢に驚きます。
久光の上洛計画が、武力で幕府を倒すための上洛、と受け止められ、各地の脱藩浪士などが続々と京都や大坂に集まっている、というものでした。
もちろん久光の考えは「幕府と朝廷が手を組むために周旋したい」という事であり、倒幕という過激な考えは持っていませんでした。

このように緊迫した情勢をみた西郷は、「下関で待て」という久光からの命令を無視し、過激派浪士たちが集まる大坂に向かいます。
大坂に到着した西郷は情勢の鎮静化を図るべく尽力しますが、下関に到着した久光は西郷が命令を無視した事に激怒し、西郷の捕縛を命じます。
これを聞いた大久保は大いに落胆。

大久保利通
事ここに至っては死ぬより他にない。

西郷に「互いに刺し違えよう」と言います。
こうとなっては生きていても仕方がないので二人で自決しよう、というわけです。
しかし、西郷は拒否。
西郷は、月照と一緒に海に飛び込んで自分だけが助かったのは「まだ自分には使命があるから天が生かしてくれた」と考えるようになっており、その後も自ら命を絶つような事はしませんでした。

 

寺田屋事件

捕縛された西郷は薩摩藩に送還され、久光率いる行列は京都に入ります。
一方、西郷によって抑え込まれていた大坂、京都に滞在している過激派浪士や薩摩藩の急進派の藩士たちは、久光が京都に入ったのを機に兵を挙げる計画をたてようと、京都伏見の船宿『寺田屋』に集結します。
朝廷はこのような不穏な動きをキャッチしていたため、久光に対して過激派浪士たちを鎮撫するよう命じます。
また、久光も自分の考えに反して過激な行動をとろうとする薩摩藩士をこころよく思っていなかったため、1862年(文久2年)4月23日、薩摩藩の中でも武術に長けた奈良原喜八郎(後に沖縄県知事)、大山格之助、道島五郎兵衛といった精鋭8名を寺田屋に派遣します。

島津久光
もし自分の命令に従わない時は臨機の処置を取れ。

久光は寺田屋にいる藩士を「場合によっては討ち取っても構わない」と命令しました。
寺田屋についた8名は、有馬らに対して藩邸に戻るように、との久光の命令を告げます。
しかし、有馬らは命令を承服せず、押し問答が繰り返され、やがて斬りあいが始まりました。
結果的に、説得側は道島1名が死亡、過激派志士側は有馬以下6名死亡、後に2名切腹、となりました。

この久光の迅速な行動は朝廷からの信頼を得るのに十分でした。

西郷の遠島処分

一方、捕縛された西郷は徳之島への遠島(流刑)を言い渡されます。 
※遠島は死罪の次に重い刑。

奄美大島にいる妻の愛加那は西郷が徳之島にいるとの知らせを受け、子供2人を連れて徳之島へ。
西郷はこのまま妻子と穏やかに暮らそうと思ったのもつかの間、藩はさらに南にある沖永良部島への遠島を命じたのです。
沖永良部島では、牢が貧弱で雨風吹きさらしの状態のため西郷は健康を害します。
そんな西郷を見かねた『間切横目(まぎよこめ)』(今で言う警察の役職)の土持政照(つちもちまさてる)は自費で西郷のために座敷牢を作ります。
座敷牢に移った西郷はやがて健康を取り戻し、島民のために塾を開くなどして過ごしました。

その頃、久光は朝廷から幕政改革の勅命(天皇の許可)を得る事に成功します。
そして、勅使(勅命を伝えるために派遣される使い)の公家・大原重徳を護衛するという名目で久光一行は江戸に入り、将軍徳川家茂に幕政改革の勅命を伝えました。
幕府は勅命に従い、一橋慶喜を『将軍後見職』に任命するなど改革を実行します。

目的を果たした久光は、1862年(文久2年)8月21日に江戸から京都に戻る途中、生麦村(現在の横浜市あたり)で行列に割り込んだイギリス人観光客を殺傷する『生麦事件』を起こしてしまいます。
翌年にはこの事件がきっかけとなり、イギリスと薩摩藩の間で戦争が勃発します。

八月十八日の政変

薩摩藩がイギリスと戦争をして大きな被害を受けていた頃、京都では長州藩の『尊王攘夷(そんのうじょうい)』運動が大きな盛り上がりを見せます。
尊王攘夷とは「天皇を尊び、外敵を斥ける」という意味で、幕府を倒して天皇中心の国に改革し、外国から侵略されないように防衛しよう」という事です。
久坂玄瑞(くさかげんずい)といった長州藩尊攘派の藩士は、朝廷の若手の公家を説き、その公家を通して朝廷を操るまでになっていました。

一方、薩摩藩が目指すのは『公武合体』、つまり「幕府を改革し、天皇(朝廷)と幕府が協力して、外国から侵略されないように防衛しよう」という事なので、長州藩の暴走を黙って見過ごすわけにはいきませんでした。
ここで、薩摩藩に思わぬ味方が現れます。
今の福島県、新潟県、栃木県のそれぞれ一部を治めていた会津藩です。
京都では長州藩や土佐藩を中心とした尊攘派藩士が、反対勢力である幕府側要人を暗殺するテロが続発しており、幕府は会津藩藩主の松平容保(まつだいらかたもり)を『京都守護職』に任命、容保は会津藩士約1000名とともに京都に入り治安維持に努めていました。
しかし、テロリストのバックには長州藩によって尊王攘夷思想に染まった若手公家達がおり、その若手公家達が実質的に朝廷を牛耳っているような状況でした。

松平容保
朝廷が絡んでいるのでうかつに手を出せない・・・。

このような事情で、薩摩藩と会津藩は「長州を京都から追い出す」という点で一致します。

1863年(文久3年)8月18日未明、薩摩藩、会津藩、淀藩の武装兵が御所九門を固め、御所内での朝議にて尊攘派公家や長州藩主の処罰を決議、元々長州藩兵が担当していた堺町御門の警備を免じました(『八月十八日の政変』)。
失脚した尊攘派の7名の公家と長州藩兵約1000名は、京都から長州へと下っていきました(『七卿落ち』)。

 

西郷召還

会津藩と手を組んでクーデターに成功した薩摩藩。
久光は再度京都に上り、公武合体を目指すべく幕府と朝廷の間を周旋しようとします。 
しかし、薩摩藩の目指す公武合体は天皇中心、幕府の目指す公武合体は将軍中心という事で、久光の提唱する改革案は幕府側の反対により行き詰まりをみせていました。
このような状況の中、藩内では「西郷を召還しよう」という声があがってきます。
「この状況を打開できるのは西郷の人望と手腕が必要だ」と思ったわけです。
西郷召還の意見具申を聞いた久光は苦渋の決断でOKを出します。
この時、久光が悔しさのあまり咥えていた銀の煙管に歯痕をつけたのは有名なエピソードです。
1864年(元治元年)2月28日、約1年8ヶ月ぶりに沖永良部島から鹿児島に戻った西郷は長期の獄中生活で歩くことができず、這いずりながら島津斉彬の墓参りをしたといいます。
すぐに久光から京都に来るよう命じられ、『軍賦役(ぐんぶやく)兼諸藩応接係』に任命され、軍司令官、外交官として活躍する事になります。

禁門の変(蛤御門の変)

1864年(元治元年)6月5日、京都三条木屋町の旅館『池田屋』に潜伏していた長州藩を中心とした尊王攘夷派志士たちが、京都守護職配下の『新選組』に襲撃されます(『池田屋事件』)。

藩士を殺された長州藩は激昂。
表向きは「(八月十八日の政変での)藩主の冤罪を帝に訴える」、実際は会津藩主の松平容保を殺害する事を目的に、多数の武装兵を京都に進発させます。
この事態に幕府は薩摩藩に対し出兵を要請します。
しかし、軍司令官の西郷は出兵を拒否。

西郷隆盛
この戦いは長州と会津との私闘である。

世論は攘夷の高まりを見せており、幕府寄りの会津藩と手を組んだ薩摩藩は怨嗟の的となっていたために西郷は「会津藩と距離をおく方が良い」と判断し、薩摩藩は禁裏(京都御所)の守護を徹底する事にしました。

しかし、恨みをパワーにした長州勢の勢いは凄まじく、御所に迫る勢いだったために西郷は薩摩藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げました。
西郷は軍司令官として兵を指揮し、長州勢を退けました。

第一次長州征伐

幕府はさらに長州藩を討伐すべく、朝廷から長州藩追討の勅命を得ることに成功、薩摩藩など西国の藩に出兵を命令します。
西郷は征長軍の参謀として、京都から長州に向かうことになりましたが「この内戦は意味がない」と考えていました。
実は、西郷は長州に向かう前に大坂で幕臣の勝海舟と初めて面会しており、その際に国内外の情勢を語り合った事で「長州と薩摩という二大雄藩が争う事はいずれ日本の損失になる」との考えを持つようになっていました。
征長軍の総督である徳川慶勝(松平容保の兄)にその旨を伝えたところ、慶勝は賛成し西郷に一切の工作を任せました。
早速、西郷は長州藩の支藩である岩国藩へ向かい、藩主の吉川経幹(きつかわつねまさ)と会談。

江戸時代の藩主家の一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与する(分知)などして新たに成立させた藩のことである。

出典:支藩 - Wikipedia

 

西郷隆盛
早急に『禁門の変』の首謀者である3人の家老を処罰、藩主父子の謝罪文書提出、『八月十八日の政変』で京都から長州に落ち延びた公家を追放して幕府に恭順の意を示すべきです。すぐに恭順するならば、私は征長軍を解兵させるように尽力します。

西郷の進言を受け入れた吉川は長州藩にこの事を伝え、長州藩は家老3人の切腹、参謀4人の斬首で恭順の意を示します。
※ちなみに高杉晋作も斬首の対象に含まれていましたが、当時は福岡に逃げて潜伏中

しかし、5人の公家(7人の公家のうち1人死亡、1人逃亡)の追放には、高杉晋作らが創設した奇兵隊などの諸隊が激しく反対しました。
※諸隊は政治集団としての意味合いも兼ねていました。

「このままだと戦争になってしまう」
西郷は自ら長州藩に入って諸隊の幹部たちを丁寧に説得、5人の公家(五卿)の身の安全の保障を約束、征長軍総督の徳川慶勝は征長軍の解兵を指示し、この問題は平和的に解決となりました。

1865年(慶応元年)初頭、五卿は福岡藩預かりに。
同年1月28日、西郷は糸子(イト)と3度目の結婚(イトは再婚)。

 

第二次長州征伐

幕府は、慶勝に長州藩主父子と5人の公家を江戸に護送するよう指示していたのですが、慶勝が下した処分は前述のとおりであったために納得せず、再度長州藩を討伐する準備にとりかかります。
この動きに西郷は激怒。
西郷は薩摩藩の首脳部と相談し、「これは幕府と長州藩の私戦であるため、幕府から出兵命令がきても薩摩藩は拒否する」という方針をまとめました。

ここで土佐藩の中岡慎太郎、土方楠左衛門、坂本龍馬が動きます。
「これを機に、仲違いしている薩摩藩と長州藩の手を握らせよう」

薩長同盟

中岡、土方、龍馬は長州、薩摩のそれぞれ指導者クラスに対して薩長同盟の必要性を説きます。
当時、長州藩士は『八月十八日の政変』や『禁門の変』が原因で薩摩藩、会津藩を大変憎んでおり『薩賊会奸(さつぞくかいかん)』という言葉まで生まれていましたが、この同盟は強大な武力を背景にした幕府が目前に迫っている長州藩にとっては「薩摩憎し」でありながらも願ってもない話でした。
また、薩摩藩も「長州征伐の次は薩摩征伐だ・・・」と危機意識をもっている中、長州藩との同盟は魅力的でした。
そんな中、中岡は西郷と長州藩の木戸孝允(きどたかよし)の会談を下関でセッティングする事に成功します。
しかし、西郷は下関での会談をドタキャンしてしまうのです。
西郷なりの政治的な意図があったと思われますが、木戸は激怒、薩長同盟は流れたかに見えました。
しかし、西郷は久光の側近となっていた同志の大久保に、薩摩藩が長州再征で幕府から出兵要請があっても明確に拒否するよう指示しました。

そして、龍馬は長州藩が幕府の制裁によって、外国の貿易商から武器を購入することができない点に注目します。

坂本龍馬
薩摩藩名義で武器を購入して長州藩に横流しして売ったらええんじゃ。

また、薩摩藩も兵糧米を入手したいと考えていましたので、龍馬は薩摩藩が長州藩から米を購入できるよう手配しました。
このような薩長和解に向けての努力が実り、1866年(慶応2年)1月21日、京都で龍馬立ち合いのもと、木戸と、西郷、大久保、小松帯刀らの薩長代表の会談が実現、『薩長同盟』が結ばれました。
なお、『薩長同盟』が結ばれた当日の会談の記録はなく、翌日に木戸が記憶をたよりに同盟内容(6ヶ条)を書いた書簡を龍馬に送付、龍馬が書簡の裏に「内容に間違いありません」と朱で書いて木戸に返信したものが残っているのみで正式な合意文書は存在しません

1866年(慶応2年)7月、西郷は長州再征の出兵を拒否する文書を書き、藩主父子の名で朝廷に提出。
薩摩藩が出兵を拒否するも、幕府側は長州より圧倒的に多い総勢15万の兵で長州藩に攻め込みます。
一方、長州藩の兵はわずか3500という無理ゲー
しかし、長州藩は同盟によって手に入れた新型兵器を駆使し、幕府軍を圧倒します。
例えば、長州藩は新式のミニエー銃を装備していましたが、これは幕府軍の持っているゲベール銃よりも射程距離が長かったので、ゲベール銃の射程外に兵を配置して幕府兵を狙撃、海上では龍馬が指揮官として運用した『ユニオン号』などの軍艦からの艦砲射撃・・・このような戦法で幕府軍との戦力差を埋めていき、やがて戦況を有利に展開させていきました。
幕府軍は戦国時代さながらの装備、招集された各藩の足並みが揃わない、挙句の果てには1866年(慶応2年)7月20日に将軍・徳川家茂がわずか20歳で死去。

戦況不利のさなかにトップが死去したことで幕府軍のモチベーションはだだ下がり。
幕府は勝海舟を派遣して「家茂の喪に服す」事を理由に長州と講和を結びました。

 

大政奉還 

家茂の次に将軍職を継いだのは、かつて西郷が斉彬の指示によって将軍にすべく運動していた一橋慶喜(第15代将軍・徳川慶喜)でした。
有能な慶喜に対抗すべく、薩摩藩主導のもと、薩摩藩・島津久光、越前福井藩・松平春嶽、土佐藩・山内容堂、宇和島藩・伊達宗城の4人が京都に集まり『四侯会議(しこうかいぎ)』が開かれました。
この会議の目的は4藩の結束を高めて政治的な主導権を握る、というものです。
しかし、慶喜との政局に敗れて不成功に終わります。

西郷隆盛
こうとなっては、幕府を倒す以外に日本の政治改革はない!

薩摩藩は、西郷、大久保を中心に武力倒幕への準備を進めていきます。
大久保は長州藩と倒幕のための出兵盟約を締結、また、公卿の岩倉具視と朝廷工作を進めます。
その結果、1867年(慶応3年)10月14日に朝廷から薩摩藩と長州藩に対して『討幕の密勅』が下されました。

一方、土佐藩は政権を幕府から朝廷に返上させる『大政奉還』を推進していましたが、密勅が下された日と同じ日に、慶喜は土佐藩の『大政奉還』の建白を受け入れ、政権を朝廷に返上しました。

徳川慶喜
政権を返上したところで朝廷には政治担当能力を持っている人物がいないから、結局はこちらに泣きついてくるだろう。

一説には、武力倒幕の大義名分を失わせるために『大政奉還』に踏み切ったとも言われています。

王政復古の大号令

1867年(慶応3年)12月9日、西郷は薩摩藩から上京させた3000人の兵を指揮、御所を警護する中、幕府を廃絶して新政府を樹立する『王政復古の大号令』が宣言されました。
その日の夜、15歳の明治天皇臨席のもと『小御所会議(こごしょかいぎ)』が開かれます。
ここで、岩倉具視は徳川慶喜に対して、辞職と領地の返納を求める事を決議しようとしますが、前土佐藩主の山内容堂は、慶喜の出席が許されていないことを非難するなど会議は紛糾しました。
会議の休憩中、会議が紛糾している事を聞いた西郷は、岩倉に対して「ただ、ひと匕首(あいくち)あるのみ」、つまり「短刀一本で相手を刺すくらいの覚悟と気迫で臨め」と勇気づけました。

岩倉具視
山内容堂と刺し違えてでも必ずや慶喜の辞官・納地を成し遂げるぞ!

これを聞いた、土佐藩重臣の後藤象次郎は驚き、容堂に「そこまで幕府の方を持つ義理はないのではないでしょうか?」と進言、容堂は再開された会議で沈黙を守り、慶喜に対して辞職と領地の返納を求める事が決定しました。

鳥羽・伏見の戦い

小御所会議の最中、慶喜は幕府軍を従えて近くの二条城に滞在していましたが、辞職と領地の返納が決定されたことを聞くと、薩長との武力衝突を避けるため大坂城に退きます。
一方、江戸では幕府兵による薩摩藩邸の焼き討ちが起こり、それを知った大坂城内の幕府兵も「薩長を討つべし!」と勢いづきます。
慶喜はその勢いに押された事と、幕府の兵力が薩長に対して3倍以上ある事から出兵を決断。
1868年(慶応4年)1月3日、幕府軍は大坂から京都へ向けて進撃を開始。
薩摩、長州藩は鳥羽街道、伏見街道に兵を配置して臨戦態勢を整えました。
鳥羽街道で薩摩藩兵と幕府軍が通行をめぐって押し問答を続けている中、薩摩藩兵の砲撃をきっかけに『鳥羽・伏見の戦い』の幕が切って落とされました。
当初、ほぼ互角の戦いでしたが、翌日、幕府兵は信じられない光景を目の当たりにします。
薩長側から『錦の御旗(にしきのみはた)』が掲揚されたのです。

錦の御旗

天皇(朝廷)の軍(官軍)の旗。

出典:錦の御旗 - Wikipedia

これを見た幕府兵は「このままでは朝敵(天皇に敵対する勢力)になってしまう」と戦意喪失、次々に退却していきました。
劣勢になった幕府軍は巻き返しを図るため、慶喜に出陣を要請しますが、朝敵となってしまった慶喜にもはや戦意はなく、わずかな側近と共にに軍艦で江戸に向けて逃亡したのです。
トップが逃亡して統率力のなくなった幕府軍は瓦解、薩長中心の新政府軍の勝利となったのでした。

 

江戸無血開城

『鳥羽・伏見の戦い』で勝利した新政府軍は江戸に向けて進軍します。
一方、慶喜は謹慎生活に入り、後処理を幕臣の勝海舟に託しました。
3月9日、幕臣・山岡鉄太郎(後の鉄舟)が降伏条件に関する事前交渉のため、新政府軍参謀の西郷の元を訪れます。
西郷が山岡に示した降伏条件は以下の通り。

1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2.江戸城を明け渡すこと。
3.軍艦をすべて引き渡すこと。
4.武器をすべて引き渡すこと。
5.城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

出典:江戸開城 - Wikipedia

 

山岡鉄太郎
第1条のみは絶対に受けられません。もし、西郷さんが島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知致しますか?

西郷は、山岡の立場を理解し第1条は保留となりました。

江戸総攻撃を翌日に控えた3月14日、勝は西郷が山岡に提示した降伏条件に対する回答を携えて西郷の元を訪れます。
勝の回答は以下の通り。

1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
4.城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
5.江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
6.暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。

出典:江戸開城 - Wikipedia

勝の回答は西郷が提示した条件を事実上拒否した内容でしたが、西郷は勝を信頼し、翌日の江戸総攻撃を中止、江戸城無血明け渡しが決定され、慶喜は故郷の水戸藩で謹慎することになりました。

庄内藩への寛大な処分

新政府軍はその後も進軍を続け、西郷は庄内藩に入りました。
かつて、庄内藩は江戸の薩摩藩邸の焼き討ちを行ったり、江戸無血開城後も新政府軍に戦いを挑んでいました。
しかし、幕府側の諸藩が次々と新政府軍に降伏し、次第に庄内藩は孤立していきます。
「もはやこれまで」と、藩主の酒井忠篤(さかいただずみ)は新政府軍に対し降伏することを決定。
これまでの経緯から、降伏条件が厳しいものになる事を覚悟していましたが、新政府軍参謀・薩摩藩士の黒田了介(後の清隆)は、敗者を思いやった非常に寛大な処置を取りました。

後に、この処分が西郷の意向によるものだと知った忠篤らは、西郷の人徳に感激します。
そして、庄内藩士達は西郷の遺訓をまとめた『西郷南洲翁遺訓(さいごうなんしゅうおういくん)』を刊行、今も読み継がれています。

帰国

1868年(明治元年)11月に西郷は鹿児島へ帰国。
新政府への出仕を辞退して政界を引退する事を考えていましたが、鹿児島の状況は平穏ではありませんでした。
戊辰戦争に参戦した薩摩藩兵の隊長らは「我々は大功を立てたにも関わらず藩政は旧体制のままなのか!」と、今回の戦争で実績のあった人材の登用を求めます。
対応に苦慮した藩政府は、藩主の忠義が自ら西郷の元に出向いて西郷に藩政へ復帰するよう依頼したのです。
それほどまでに大きな存在となった西郷は隠居する事ができず、薩摩藩の参政として改革に着手する事になるのでした。