『好きな幕末の志士』で必ずTOP3に入る坂本龍馬。
みなさんが思い浮かべる坂本龍馬像は、さわやかで人懐っこく人間味があり、かつ頭もキレて『薩長同盟』や『船中八策』といった歴史的偉業を成し遂げ、『海援隊』をつくるなど先見性があった人物、といったところでしょうか?
幼馴染の家の玄関で毎回立小便
龍馬の幼馴染に、武市半平太(たけちはんぺいた)という大物志士がいました。
この2人仲が良かったようで、お互いの欠点部分をあだ名に呼び合っていました。
龍馬は顎のでかい武市を『顎(あご)』と呼び、武市はホクロがボツボツある龍馬を『痣(あざ)』と。
武市は『土佐勤皇党』という結社を作って党首となり龍馬も加盟。
龍馬は武市邸に頻繁に出入りしていたのですが、毎回武市の妻を怒らせます。
「そうそう、天下の事を成さんとする人物なんだから立小便くらい・・・」とはなりません。
毎回、同じ箇所に立小便をし続ける、相当な匂いだったでしょうね・・・。
梅毒にかかっていた
小説やドラマでの龍馬は、とにかくさわやかな快男児として描かれていますが実際はどうだったのでしょうか?
龍馬にパシリとして使われていた、龍馬より一回り下の中江兆民(なかえちょうみん)は後年、知人に龍馬の事をこう話しています。
これは兆民が言っただけで、100%立証する史料はないですが、江戸時代、梅毒にかかっていた成人男性は5割を超えていました。
おそらく梅毒にかかっていた他の偉人も多いでしょう。
当時は別に珍しくもなんともない病気なのですが、さわやかな龍馬像を崩されるのがイヤな龍馬ファンが目を吊り上げ真っ先に反論してくるのが梅毒ネタなのです。
龍馬は『愛酒詩』という、「酒と女が大好きだ!」という漢詩を残していますし、結構な女好きだった事が想像できます。
新婚旅行でDQN行為
『DQN(ドキュン)』とは「不良などが非常識な振る舞いをする事」を意味するインターネットスラングです。
龍馬といえば日本初の新婚旅行をした事も有名ですが、その新婚旅行中にドン引きするDQN行為をしていました。
出典:みやざき観光情報 旬ナビ
龍馬は妻(お龍)と新婚旅行で今の宮崎県と鹿児島県の境にある『高千穂峰(たかちほのみね)』を訪れたのですが、ここの山頂には『天の逆鉾』と呼ばれるご神体が挿さっています。
龍馬夫妻はこのご神体を引き抜いてしまいます。
ご神体を引く抜く事は、神社の鳥居に落書きする、寺の大仏にイタズラする、といった事と同様の非常識な行為なのですが、龍馬は逆鉾を引き抜いた話を姉に手紙で自慢しています。
しかも、ここは当時女人禁制だったのです。
もし龍馬が現代にいたら有名政治活動家になっていたと思いますが、おそらくTwitterでDQN行為をつぶやいて炎上しているでしょう。
薩長同盟
小説やドラマでは、幕末、敵対関係にあった「薩摩と長州が手を握らなければ幕府を倒せない」とあたかも龍馬一人が『薩長同盟』を発案、薩摩と長州の仲をとりもってその結果幕府を倒したように描かれています。
実際は、元々はイギリスの案であり、イギリスの駐日公使だったハリー・パークスが薩摩、長州、土佐といった藩を結びつけるためにかなり奔走していました。
また、『薩長同盟』の起草文を考案したのは福岡藩の月形洗蔵(つきがたせんぞう)です。
このような動きをみて『薩長同盟』の必要性を感じた龍馬も両藩斡旋のために動くのですが、土佐藩の中で龍馬一人が動いたのではなく中岡慎太郎といった志士たちも奔走します。
さらに、「幕府を倒す為には薩摩と長州が提携しないとダメだ」という認識は当時の志士達の間では常識でしたから、乱暴な言い方をすれば龍馬がいなくても『薩長同盟』は締結されていたでしょう。
ただし、『薩長同盟』に至るまでに龍馬率いる『亀山社中』が薩摩と長州間の物資の斡旋をする事により両藩が和解し、同盟の締結により供与した事は間違いないと思います。
龍馬一人がやった事ではなく、色々な人達が同盟の必要性を感じて動いた結果、成るべくして成ったのが『薩長同盟』です。
船中八策
『船中八策』とは、新国家体制(明治政府)の基本方針などを書いた資料です。
これも、龍馬がひらめいたように描いている小説やドラマが多いのですが・・・。
京都へ向かう洋上で、龍馬が後藤象二郎(しょうじろう)に話した内容を長岡謙吉が書きとめた、と言われています。
しかし、実際は長岡自筆の文書は残っておらず、『船中八策』自体が創作ではないか、と言われています。
ただ、内容のよく似た『新政府綱領八策』という龍馬自筆の文書が現存していますが、これは龍馬の案ではなく、別の資料を筆写した可能性が高い、と言われています。
また、『船中八策』のような新国家体制については、横井小楠(しょうなん)の『公儀政論体』にも書かれています。
『船中八策』、『新政府綱領八策』は龍馬が生涯に6度会って多大な影響を受けた横井小楠からレクチャーされた内容をずいぶん参考にして作成した、という方が正しいでしょう。
『坂本龍馬』が初めて世に知られたきかけ
今では坂本龍馬といえば幕末を代表する有名人ですが「当時から有名だったのか?」というとそうでもないのです。
もちろん当時から志士達にはある程度知られていましたが、一般的には無名でした。
では、いつからこんなに有名になったのか?
それは1904年(明治37年)の『日露戦争』からです。
『日露戦争』前夜、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)(明治天皇の皇后)はある夢を見ます。
この話を龍馬と同じ土佐藩出身の宮内大臣、田中光顕(みつあき)が新聞社に語って記事になった事がきっかけで、全国的に無名だった坂本龍馬が一般的に知られるようになったわけです。
明治維新はいわゆる『薩長土肥』と言われるとおり、薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)、土佐(高知県)、肥前(佐賀県)を中心とした勢力が成し遂げました。
その中でも、薩摩、長州が中心となって幕府を倒した事もあり、革命後の果実(公務員の椅子)もこの2藩出身者が多くを占めていました。
当然、土佐などの藩は面白くありません。
田中は薩摩、長州閥の専売政治に反発していた中、宮内大臣という立場を利用して龍馬を昭憲皇太后経由で売り出し、土佐藩の立場を少しでも強めようとしたのでは、という見方が有力なようです。
『竜馬がゆく』で大ブームに
次のブームは、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』です。
多くの龍馬ファンが龍馬の事を語る際に小説『竜馬がゆく』に書かれた数々のエピソードの真偽を確かめずに引用していますが、この小説の題名をよく見て下さい。
『龍馬がゆく』ではなく『"竜"馬がゆく』です。
司馬遼太郎も言っていますが、この小説はフィクションです。
この小説を鵜呑みにして、龍馬を熱く語るファンが多いのです。
現在、多くの人がもっている坂本龍馬像は『竜馬がゆく』で創られたイメージを引用した小説やドラマ、番組などから得たものなのです。
「いや、それは司馬さんの創作ですよ」と指摘してもファンはなかなかわかってくれない、この小説を史実と信じているのです。
このように、坂本龍馬は過大評価されています。
「教科書から坂本龍馬が消える」というニュースがありましたが、つまりそういう事なのです。
ただ、現在も残っているユーモアのある手紙からもわかるように、非常に魅力のある人物だった事は間違いないでしょう。