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【混浴】銭湯の始まりからあんなことやこんなこと

下田の公衆浴場

日本は夏は暑くて汗をかき、冬は寒くて温まるため、また疲れをとるために多くの日本人は毎日入浴します。
世界的には珍しいこの習慣、いったいいつから始まったのでしょうか?

銭湯の始まり

仏教伝来の頃、大寺院の伽藍(がらん:寺院の主要建物)には浴堂という風呂のようなものがありましたが、これは御仏に仕える際の身を清めるために使っていたもので、現代のような娯楽施設ではありませんでした。

その後、鎌倉時代になると寺院は慈悲の精神から浴堂を一般に開放するようになりますが、戦国の戦乱によって荘園制度が崩壊して年貢の徴収ができなくなってくると、入浴料を徴収するようになります。

室町時代になると寺院だけではなく民間の銭湯も誕生します。
この時代、銭湯は2種類ありました。

風呂屋 熱い湯気で室内を高温にする 今のサウナに近い
湯屋 湯船に熱湯を入れる 今の銭湯に近い

京と江戸の違い

京など上方の人々は裕福になると屋敷内に内風呂を作っていたのですが、江戸の人々は裕福になっても内風呂を作りませんでした。
なぜでしょうか?
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があります。
そう、理由は火事です。

上方に比べて乾燥し、かつ風が強く、現代の東京と変わらず狭い地域に人、建物が密集していたため、ひとたび火事が起こると大火になってしまう事が多かったのです。

関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえる。
出典:江戸の火事 - Wikipedia

もし、火元になってしまうと本人だけではなく、連帯責任として家主や地主も罪に問われるため、へたに内風呂を備え付けられなかったのです。
このように江戸では裕福層でも内風呂がないため、江戸の銭湯はまさしく老若男女貧富貴賤入り乱れる状態でした。

 

当時の銭湯は混浴

老若男女貧富貴賤入り乱れる、と書きましたが、当時はこの記事のトップ画像(幕末の下田の銭湯)のように混浴が普通でした。
「え!?混浴だと若い女性が襲われたりしなかった?」
たいがい、近所のおばさん連中が鉄壁のガードで守っていたようです。

さて、この混浴に衝撃を受けた外国人がいます。
ペリー提督です。

ペリー提督
ニホンジン、ドウトクシンニスグレテイルトオモッテイタケド、コンヨクシテイル。ホントウニドウトクシンハアルノカ?

あんなことやこんなこと

当時の男性の下着といえばふんどし。
江戸時代の男性はふんどしからアンダーヘアーがはみ出るのを嫌いました。
銭湯には『毛切り石』というものを備え付けられており、この石を2つ使ってアンダーヘアーを擦切っていたのです。

毛切り石

一所懸命毛切り石を使用している男性の後ろの女性は『湯女(ゆな)』といって、客の垢とりや背中を流すだけではなく性のサービスも行っていました。
このような風紀の乱れに幕府は黙っているはずもなく、『湯女』を禁じるもいたちごっこ。
ついに幕府は1656年(明暦2年)に禁令を出して、『湯女』を吉原遊郭に強制移送、『湯女』の変わりに『三助(さんすけ)』と呼ばれる男性が客の背中を流すサービスをつとめるようになりました。

『太平洋戦争』後、混浴を撮影しようと米兵がカメラ片手に銭湯に乗り込んできたという話があるほど、日本の混浴文化は世界的に有名でした。

すでに明治初年に混浴は禁止されていましたが、実際には昭和30年代までは「混浴は当たり前」という地方もあったようです。