明治維新といえば、薩摩、長州、土佐、肥前の4藩が中心となって成し遂げた革命という事はよく知られていますが、その維新のわずか5年前に「今こそ幕府を倒す時だ!」と先走ってしまい、あっという間に散ってしまった『天誅組』という組織がいたのをご存知でしょうか。
『朝廷』と『幕府』の関係
『天誅組』の話をする前に、まず、当時の状況を理解するために江戸時代の『朝廷』と『幕府』の関係をおさらいしておきましょう。
朝廷
天皇を頂点とした公家(貴族)による政府
平安時代までは朝廷が日本を支配
幕府
征夷大将軍(将軍)を頂点とした武士による政府
鎌倉時代~江戸時代までは幕府が日本を支配
ここで重要なのは、幕府は朝廷から日本の支配を委任されていた、という点です。
「じゃあ、朝廷の方が偉いの?」
いいえ、これはあくまで形式上で、朝廷には武力もお金もないため実際は幕府の言いなりでした。
しかし、幕末になるとペリーをはじめとした欧米諸国の武力を背景にした威嚇行為に幕府はオロオロするばかりで次第に権威が失墜していきます。
尊皇攘夷(天皇を尊び、外国を斥ける)運動が活発になっていきます。
特に、尊皇攘夷派が政権を握っている長州藩は、積極的に朝廷でロビー活動をして尊皇攘夷派の公家と結託し、朝廷内での発言力を増していきました。
外国人嫌いの孝明天皇が徳川将軍に攘夷の勅書を授ける
実際は、赤ワインをすすってステーキを食べているだけだったのですが、孝明天皇(明治天皇の父)は、側近に「外国人とはこのような野蛮なモノ」と聞かされ、筋金入りの外国人嫌いになります。
そして、1862年(文久2年)12月に将軍・徳川家茂(いえもち)に命令します。
実際はこのように直接命令したわけではなく、天皇の攘夷(日本に迫る外国の撃退)の勅書(天皇の命令書)を将軍に授けるわけです。
天皇の命令は絶対で、逆らうと逆賊とみなされるので、幕府は従うしかありません。
しかし、圧倒的な軍事力の差がある欧米諸国に対しての攘夷は不可能です。
なかなか攘夷の決行日を決められないでいると、朝廷から「いつ攘夷を決行するんだ?」としつこく迫られます。
耐えかねた幕府はとうとう「(1863年(文久3年))5月10日に攘夷を決行する」と返答してしまいます。
もちろん、幕府は外国と結んでいた不平等条約の破棄についての交渉を5月10日にする、くらいの気持ちだったのですが、攘夷急先鋒の長州藩は(わざと)真に受けて同日下関海峡で外国船を砲撃します。
長州藩を始めとした攘夷派の本当の目的は、天皇の権威を利用して幕府を追い詰め、政権を奪取すること。
もちろん、当時の欧米諸国と日本には圧倒的な軍事力の差がありましたから、後に外国勢からの報復で長州藩はボロボロになってしまいます。
このあたりの話は下記の記事に書いていますのでどうぞ。
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さて、この下関海峡の攻撃には、長州藩に招かれた僅か19歳の若手公家が参戦していました。
後の明治天皇の叔父となる中山忠光(ただみつ)です。
天誅組の結成
当時の朝廷は上に書いたように長州藩のロビー活動の成果があってか、長州派の公家が実権を握っていました。
そして、1863年(文久3年)8月13日、『大和行幸の詔(やまとぎょうこうのみことのり)』が発せられます。
「孝明天皇が初代天皇である神武天皇陵を参拝し、外国人を追い払う決意を報告する」
つまり、朝廷は幕府を無視して勝手に外国人を追い払うから、と世間にアピールするためのパフォーマンスです。
ここで、坂本龍馬と同時期に土佐藩を脱藩した攘夷派志士の吉村寅太郎が動きます。
吉村は下関海峡での外国船砲撃に参戦し、京で謹慎させられていた中山忠光を首領に迎え入れ、約30名で『天誅組』を結成。
挙兵
1863年(文久3年)8月16日、『天誅組』は狭山藩(現在の大阪狭山市)に入り、首領の中山が狭山藩の家老と面会。
出陣などしたくない狭山藩は、とりあえず武器弾薬を贈ってその場をやり過ごしました。
翌日、『天誅組』は五条(現在の奈良県五條市)に到着。
代官所を襲撃し、声高らかに宣言します。
しかし、その頃京ではクーデターが起ころうとしていました。
突然の『大和行幸』中止
朝廷内での発言力を増していた尊皇攘夷派(幕府を倒して新政府樹立を目指す)の長州藩を以前から苦々しく思っていた公武合体派(幕府と朝廷が連携して政府を運営)の薩摩藩と会津藩は、朝廷から長州派を中心とした尊皇攘夷派を一掃するためのクーデターを密かに計画していました。
元々、幕府を信頼していた孝明天皇は、薩摩、会津両藩が差し向けた中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)の説得に応じます。
天皇からの勅(天皇の命令)を授かった公武合体派は、翌日8月18日早朝よりクーデターを決行。
各藩の兵が御所の各門を固めた上で、大和行幸の延期(実質中止)を決定、今まで尊皇攘夷派が行ってきた行為の処罰を決議。
長州藩兵約1000名、尊皇攘夷派の公家を朝廷から追い出す事に成功します。(『八月十八日の政変』)。
逆賊になってしまった『天誅組』
天皇の大和行幸の先鋒、という名目で五条の代官所を襲撃した『天誅組』ですが、その大和行幸が中止となった今、大義名分を失ってしまい単なる暴徒となってしまい追討令が出されます。
十津川郷士
古代より朝廷に仕え、何かの乱があるたびに京へ出兵して朝廷からの信頼が厚かった十津川郷士。
彼らを引入れようと『天誅組』は十津川(現在の奈良県十津川村)に入ります。
当時は今のように電信がないので、十津川の人達には『天誅組』が逆賊だという事はまだ伝わっておらず、朝廷に仕える兵だと信じて十津川、そして近隣の村から計950人程の十津川郷士が馳せ参じました。
『天誅組の変』に遭遇した私の先祖の言い伝え
私の先祖は十津川の隣にある『大塔村』(現・五條市)に住んでいて、今も子孫が住んでいます。
そこにも彼らはやってきました。
戦国時代さながらの鎧兜を身につけ、槍を持ってうろうろしていて怖かったようです。
村の女性、子供には兵糧(食料)を作るよう命じ、男性には戦闘に参加するよう脅迫しました。
庄屋(今で言う村長)だった先祖は、『天誅組』から御用金(軍資金)を納めるよう命じられます。
突然の『天誅組』の訪問は迷惑以外の何者でもなかったようですが、反対すると斬首されるので従うしかなく、他の2つの村と合同で合計100両、現在の価値にすると2,200万円程度を『天誅組』に治めました。
ちなみに御用金というのは、表向きは借金として処理されますので、一応、『天誅組』の首領である中山忠光から借用書を受け取りました。
下の写真は私の田舎にある借用書を撮影した写真です。
写真写りが悪いですが、右側に『百両』、真ん中あたりに『忠光』と書かれているのがわかるかと思います。
敗走
約1000名となった『天誅組』とその兵は、籠城戦のために高取城を奪おうとするも失敗。
敗走し、吉野の山中を彷徨います。
幹部の吉村寅太郎は、坂本龍馬、武市半平太と日本を変えるために土佐勤皇党を結成した仲。
日本の変革を願っていた彼は怪我をして駕籠に乗っている時、周囲の者にこう言いました。
しかし、小屋に隠れていたところを幕府兵に見つかり「残念!」と叫び銃殺されました。
享年27。
首領の中山は、かつて庇護してくれた長州藩に逃げ込みますが、長州藩は当時と違って幕府よりの政党が実権を握っており、中山は暗殺されました。
享年19。
この事件の5年後に明治維新が成立したことから、維新には早すぎた天誅組と言われています。