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【前科5犯】自分に正直過ぎた『吉田松陰』の破天荒エピソード

吉田松陰

吉田松陰(しょういん)といえば、『松下村塾』で名だたる志士達を育てあげた教育者、清廉潔白のイメージがありますが、実はなかなか破天荒なエピソードが満載なんです。

叔父の超スパルタ教育

松陰は少年の頃、叔父の玉木文之進(ぶんのしん)から怒涛のスパルタ教育を受けていました。
例えば、ある時松陰は本を読んでいて、ふと蝿が頬に止まったので頬を掻きました。
痒かったので頬を掻いた、普通の行動ですが文之進は許しませんでした。
文之進は松陰をボコボコに殴り続け、しまいには崖から落としてしまいました。
松陰は気絶してしまいます。
なぜ文之進は松陰を殴ったか?
それは、

本を読むこと(学問)は『公』、頬を掻くことは『私』。
公私混同を許すと、いずれ私利私欲を貪る人間になる。

という事です。

「なぜ、こうまで厳しく教育しないといけないのか」
その理由は、吉田家という『山鹿流』の兵学師範(教授)の家に養子にいった叔父の吉田大助が急死し、急遽6歳の松陰が吉田家へ養子にいく事になったからです。
吉田家へ養子に行く、という事は将来「『山鹿流』の兵学師範にならないといけない」、という事。
そこで、山鹿流免許皆伝の文之進が「ワシが松陰を立派な兵学師範に育てると、松陰を立派な兵学師範とすべく、非常に厳しい教育をしたのです。
厳しい教育の成果あって、松陰は19歳で兵学師範に就任しました。

友人と一緒に東北旅行したいから脱藩

友人の宮部鼎蔵(ていぞう)たちと東北旅行する約束をしていた松陰は、所属する長州藩に通行手形を申請します。
※通行手形は、今で言うパスポートで藩(国)に入る時に必ず提示しなければいけないものです。藩をまたぐ旅行は、今の海外旅行のような感じですね。

しかし、旅行の約束日になっても藩から通行手形が発行されません。

吉田松陰と宮部鼎蔵のLINE

楽しみにしていた東北旅行、通行手形はまだ発行されないけど、友達に迷惑をかけたくない、という事で松陰は脱藩してしまいます。旅行のためだけに。
脱藩は最悪死罪になる罪で、長州藩はわりと脱藩には寛容でしたが、結果的に松陰は士籍剥奪・世禄没収の処分を受けてしまいました。

ペリーの黒船に乗り込んで海外に密航しようと企てる

ペリー

ペリーが初めて黒船でやってきた時、次も来たら日本刀の切れ味を見せる!」と意気込んでいた松陰。
しかし、西洋の文明を学んでいくにつれ、いつしか西洋憎しから西洋への憧れに変わっていきました。

翌年、『日米和親条約』締結のために再度日本に来たペリー率いる黒船。
樟蔭は、弟子の金子重之輔(しげのすけ)を誘って「黒船に乗り込んで海外留学させてもらおうという計画を立てます。

まずは、盗んだ小船で黒船に横付けし、乗り込みに成功。
そして、乗員に「私をアメリカへ連れて行ってくれ!と海外留学したい旨を訴えますが、条約締結したばかりで日本とのトラブルを回避したかったアメリカ側は政治判断で拒否しました。
やむなく海外留学計画は中止、諦めて帰ろうとするも黒船に横付けしていた小船がどこかに流されていたため、仕方なく黒船備え付けのボートで岸まで送られた松陰たちは、「小船に残していた証拠が見つかるとマズイ!」と、流された小船を懸命に捜しますが、とうとう見つかりませんでした。
松陰たちは観念して奉行所に出頭。
「僕たち、国禁を犯して海外に密航しようとしましたあっさり自首
ペリーは、海外留学を許可しなかったものの、松陰たちの行動を報告書で以下のように絶賛しています。

「この事件は、知識を増すためなら国の厳格な法律を無視することも、死の危険を冒すことも辞さなかった2人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとし て、実に興味深かった。
(中略)
この日本人の性向を見れば、この興味深い国の前途はなんと可能性を秘めていることか、そして付言すれば、なんと有望であることか。」
出典:世界が初めて出会った「志士」 | nippon.com

 

仮釈放中に『松下村塾』を運営するもまたも牢獄に

海外密航を試みた罪で牢屋に入れられていた松陰は、仮釈放され自宅謹慎になります。
スパルタ叔父の文之進が主催していた『松下村塾』を引き継いで、近所の人たちに講義を始めました。
生徒たちはそうそうたる面々。
松陰は一方的に講義するスタイルではなく、生徒と積極的に意見を交わしたり、時には一緒に水泳や登山などをしたそうです。

松下村塾生

※入江九一と野村靖の顔写真が同じになってしまいました。

ある時、松陰は幕府の大老の井伊直弼(いいなおすけ)と、老中の間部詮勝(まなべあきかつ)が、幕府の政策に反対する勢力を弾圧していく様を見て怒り心頭になります。
「何とかせねば」と、松陰は行動を開始します。
しかし、行動の内容がマズ過ぎました。
なんと、藩に対して「間部を暗殺するので武器を提供してくれないか?とお願いしたのです。
なんて正直者なのでしょう。
もちろん藩はビックリし、「松陰を野放しにしていたらマズい」とまたも牢獄に入れます。

弟子達と絶交、そして、江戸で処刑

弟子達はこのまま松陰を放っておいたら本人はおろか、長州藩自体が滅びてしまう、と危機感を抱きます。
桂小五郎は玉木文之進に事情を説明すると、文之進も「全く同感だ」ということで、松陰の兄の梅太郎を呼び、松陰と弟子、友人たちを絶交させるよう図ります。
同じ頃、江戸にいる高杉晋作ら弟子たちも「師匠、これ以上過激な行動をおこさないで下さい」と血判状を作って松陰に渡しました。

桂小五郎と玉木文之進と高杉晋作のLINE

弟子からは血判状を渡され、兄からは弟子や友人たちと絶交するように言われた獄中の松陰はブチ切れ、そして絶望して絶食・・・しかし家族に止められます。
すると、松陰はまたもや弟子を利用して幕府に対して過激な工作を実行しますが、これも露呈してしまいます。

幕府は、松陰が「幕府要人を名指しで弾劾した文書を書いたのではないか?」という疑いをかけ、取調べのために松陰を江戸へ護送しました。

取り調べの結果、この文書は松陰の手によるものではない事が判明、無罪となりましたが、正直者の松陰は「老中の間部詮勝を暗殺しようとしたことがあるんですよ」自ら暴露してしまうのです。
当然、幕府は放っておけません。
「危険分子は消さないといけない」という事で、松陰は大老の井伊直弼が実行した幕府への反対者を一斉弾圧した『安政の大獄』の最後の刑死者として処刑されました。
若干29歳でした。

ちなみに、最終的に前科5犯でした。 

『諸君、狂いたまえ。』

最後に、松陰が弟子達に説いた『狂』の精神について。
頭がおかしい(クレイジー)というイメージがありますが、松陰の言う意味は常識に捉われては大きな改革は遂げられない、現状に満足せず狂ったように自分の信じる道を進め」という事です。
のんびりと平和だった江戸時代に「外国が攻めてくる!日本を幕府に任せていたらダメだ!と、本州の端っこで声高々に訴えていたわけですから、当時の松陰が狂人扱いされていたのも無理はなかったのかもしれません。
しかし、松陰は生涯この思想を貫き、結果として弟子たちが中心となって幕府を倒し、日本の近代化に多大な貢献をしました。