古代、日本に対して自ら属国待遇を希望した国『渤海(ぼっかい)』。
今の北朝鮮とロシアの一部を支配していた大国がなぜ、小国日本の属国となったのでしょうか?
そこにはしたたかな戦略があったのです。
日本へラブコール
698年に建国された『渤海』は、朝鮮半島にあった隣国『新羅(しらぎ)』を牽制するため日本に接近しようと試みます。
727年、『渤海』は日本に使節を送ります。
・・・が、不運にも蝦夷(えみし)が支配する地域に船をつけてしまい、16人の使者が蝦夷によって殺害されてしまいます。
日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称
出典:蝦夷 - Wikipedia
生き残った8人は何とか平城京にたどりつき、渤海王の国書を日本側へ渡します。
ここで日本側は勘違い。
以後、朝廷は『渤海』を属国として待遇します。
当然、『渤海』は日本に属国待遇をやめるよう要求します。
しかし、その後なぜかすすんで属国になる事を認め、頻繁に使節を日本に派遣することになります。
名をすてて実をとる外交
国としてのランクを下げてまで日本の属国になった『渤海』。
名よりも以下のようなメリットをとったのです。
大量の繊維品をゲット
『渤海』では繊維品を生産する事が難しかったため、日本に来るたびに大量の絹や麻などを持ち帰る事ができるのは非常に魅力的でした。
朝貢という形式で費用負担なし
朝貢(ちょうこう)は、主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与えるという形式を持って成立する。
出典:朝貢 - Wikipedia
朝貢は対等外交ではないので、日本は『渤海』の使節の滞在費やその他一切の費用を持たなければなりませんでした。
日本側は『渤海』からの貢物の数倍の回賜(お返し)で応え、『渤海』に多大な利益をもたらしました。
国としてのランクが下がるデメリットよりも、このようにメリットの方が大きいと判断した『渤海』は毎年のように日本へやってきます。
日本側の負担が重すぎたため、12年に1度の来日という条件を『渤海』に申し渡しますが、朝貢貿易の魅力にとりつかれた『渤海』はそう簡単には引き下がりません。
色々と口実をつけては毎年のように来日してきます。
たまりかねた日本はこう理由をつけて使節を強制帰国させます。
右大臣の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)もこう言います。
「渤海の使節は単なる商人だ。商人を国賓扱いする必要なし」
日本側の毅然とした態度におそれをなしたのか、『渤海』は12年に1度の来日という約束を守るようになりました。
12年に1回の定期的な来日になったという事で、逆に日本側は大規模な歓迎レセプションを開くなど、渤海使を厚遇するようになります。
『渤海』は926年に隣国の契丹(きったん)の襲撃を受けて滅ぶまで、のべ34回にわたって日本に使節を派遣しました。
契丹は襲撃の際、『渤海』を徹底的に破壊したため今では痕跡はほぼありませんが、かつて『渤海』の都のあった場所からはときおり和同開珎(わどうかいちん)が出土し、かつて日本と交流があった事がしのばれます。