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【蒙古襲来】世界最強『モンゴル帝国』が攻めてきた!

文永の役の鳥飼潟の戦い

鎌倉時代に起こった2度にわたるモンゴル帝国による日本侵攻(元寇)。
なぜ、モンゴルは2度も日本を侵攻しようとしたのか?
そして、『神風』が日本を救ったという話の真実は?
日本建国史上最大の危機と言われた『元寇』、日本はどのようにモンゴル帝国軍に勝利したのでしょうか?

めちゃくちゃ強かったモンゴル帝国

当時のモンゴル帝国はいったいどのくらい強かったのか?
まずは、支配面積をみてみましょう。
西はトルコから、東は朝鮮半島まで、南はミャンマーまで支配。
実に地球上の陸地の約25%を統治していたのです。

Mongol Empireaccuratefinal.png
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1467734

ちなみに、支配面積はイギリス帝国が1位なんですが、イギリスの領土は世界中にとびとびだったので、陸続きだとモンゴル帝国が1位になります。

1位:イギリス帝国 3370万km
2位:モンゴル帝国 3300万km

・・・

14位:大日本帝国 740万km

List of largest empires出典:List of largest empires - Wikipedia, the free encyclopedia

なぜ、こんなにも強かったのか?

『個』としての強さ
厳しい大自然の中で鍛えられた肉体
普段から馬術、弓術に親しんでいた

 

『軍』としての強さ
10人単位で組織された単純明快な『隊』を編成
命令系統がシンプルになり兵一人一人まで伝達
上官の命令は絶対
違反すると生きたまま釜ゆで
侵略した敵側の技術者を厚遇
新兵器を開発させ積極的に実戦投入

と、このように個の能力と、一糸乱れぬ見事な組織運営で13世紀初めに世界地図を一挙に塗り替えたモンゴル帝国。
いったい、日本に侵攻したのは何故なのでしょうか?

『フビライ・ハーン』に目をつけられた日本

マルコ・ポーロの『東方見聞録』に書かれているように、当時の日本は金(きん)がたくさん採れました。
しかし、大陸から離れているため外国の商人はほとんどやってこず、国内に大量の金が溢れている状態で、モンゴル帝国第5代皇帝のフビライ・ハーンもこの噂を耳にしていました。

フビライ・ハーン
日本という国は金がたんまり採れて、美味しい鶏がいるみたいだのう。

という事で、まずは穏便に日本へ国書を持たせた使者を送ります。

フビライ・ハーン
私はモンゴル皇帝フビライ・ハーンだ。日本と親睦を深めたいと思っている。

内容は穏やかな国書でしたが、暗に日本国王を臣下におく、という高飛車な内容だったため日本側は返書をせず黙殺。
モンゴル帝国側は表向きは穏やかな態度でしたが、裏で(日本侵攻のために)1000隻の船を建造するというしたたかさ。

結局、モンゴル帝国は計6度日本へ使者送るも、日本は一度も返書せず。
とうとう、フビライ・ハーンはキレて「日本を侵攻する!」と言い出します。

『南宋』攻略の一環として

ここで、モンゴル帝国側の事情をみてみましょう。

周辺地域をどんどん支配下に治めていったモンゴル帝国ですが、中国の王朝である南宋の攻略に意外と苦戦します。
南宋の兵力は今までに征服した国と比べて劣っていましたが、地形がやっかいでした。
多数の水田や堀があり、モンゴル帝国自慢の騎馬隊を思うように運用できなかったのです。

そこで、方針転換。
南宋と正面から勝負するのではなく、国交のある周辺国を征服し、南宋との貿易を禁止させました。
「これで南宋包囲網は完了。総攻撃だ~!」
「アレ?」
またも南宋を攻略する事ができません。
完璧な包囲網のハズ、と思っていたら一箇所だけ穴がありました。
海を隔てた日本と頻繁に貿易している事がわかったのです。
日本は、南宋に金、銀、材木といったものを輸出していました。

フビライ・ハーン
世界征服の一環として、南宋と日本を潰すぞ。

 

第1ラウンド『文永の役』

1274年(文永11年)10月3日、モンゴル帝国軍は約900隻の船に26,000人の兵を乗せ、日本に向けて出発。
10月5日、対馬沿岸におびただしい数のモンゴル帝国軍の船が到着し、そのうち、約1000人のモンゴル兵が対馬へ上陸。
日本側は約80人で対抗するも全滅。
続いて、10月14日に壱岐へ侵攻。

対馬、壱岐では地獄絵図が展開されていました。
男性は殺されるか生け捕りにされ、女性は手の平に穴を空けて数珠つなぎにされ、船のへりに矢よけとして並べられ・・・。

10月20日、モンゴル帝国軍は博多湾に上陸。

日本式の戦い方で大苦戦

さて、迎え撃つ日本軍はモンゴル兵に対しても、武士どうしで戦う時と同じように『名乗り』をあげました。

武士
我こそは○○の流れをくむ子孫で、□□の家臣、△△である!

この時代の武士は名乗りをあげる事で、周囲に戦功を証明してもらう習慣がありました。
ちなみに、戦隊ヒーローが名乗りをあげるのは、この名残りですね。
名乗っている最中は攻撃してはいけない、という暗黙のルールがありましたが、そもそもそんな習慣のないモンゴル兵には関係ありません。
名乗っている最中、名乗ってから一騎駆けしてくる武士を集団で攻撃、日本の武士は次々に殺されていきました。

モンゴル兵が放つ毒矢、手りゅう弾のような『てつはう』という新兵器を前に、日本軍はすっかり気圧されます。

てつはう
※てつはう

日本軍の押し返し

日本軍劣勢の中、菊池武房(たけふさ)という猛将が100騎あまりを引き連れて敵陣に突入。
多数のモンゴル兵の首をぶら下げて帰陣してきました。
これをきっかけにモンゴル兵は退却。
退却するモンゴル兵を追って、今度は竹崎季長(すえなが)という武者が僅か5騎を引き連れて敵陣に突っ込みます。

竹崎季長
※この記事のトップの画像『蒙古襲来絵詞』の右側に描かれている竹崎季長。

当然、モンゴル兵は雨のように毒矢、『てつはう』を撃ち込んできます。
季長の乗っている馬はご覧のように毒矢にうたれ、季長は落馬。
絶対絶命と思われたその時、援軍がやってきてなんとか命拾いします。
ちなみに、この季長、日本を守るというよりも個人的な理由で『一番駆け』をしたのです。

竹崎季長
遺産相続争いに敗れて生活もままならんわ。戦功をあげて恩賞を与えてもらうように頑張るぞ!

めでたく『一番駆け』の戦功が認められ恩賞を与えられました。

第1ラウンド終戦

戦いが総力戦の様相をみせる中、モンゴル帝国軍首脳陣の意見が対立します。

「このまま戦いを続けるべきだ!」
「いや、物資がもうすぐ無くなる。このまでは戦えない。撤退だ。」

総大将の判断は『撤退』でした。
多数の船に分乗しての撤退途中、猛烈な暴風雨が博多湾を襲い、およそ13,500人のモンゴル兵が溺死。
この戦いは「日本は暴風雨のおかげでモンゴルに勝利した」のではなく、モンゴル帝国軍が日本から撤退中に暴風雨に遭遇した、というのが事実です。

 

第2ラウンド『弘安の役』

モンゴル帝国は『文永の役』で日本に攻め入るのと並行して、南宋へも攻め入っていました。
上に書いたように、南宋の地形はモンゴル帝国自慢の騎兵を上手く運用する事ができないため、海軍戦力を強化。
慣れないながらも海戦をメインに、また、イラン出身の職人に新型の投石器を開発させ実戦投入。
激戦の末、モンゴル帝国は南宋に勝利します。

沿岸の防御力強化

いっぽう、日本側は再びモンゴル帝国が攻めてくるだろう、と予測。
『文永の役』では敵に上陸を許したがために野戦で苦戦したので、次は水際でくい止めるべく、博多の沿岸に防塁を築いていきます。
モンゴル帝国は、日本への再攻撃の準備を進めながらも、懲りずに日本側に使者を送りますが、日本はモンゴル帝国に服属する気はさらさらないので、都度使者を処刑していきます。

執拗に日本を狙うモンゴル帝国

使者を殺されたモンゴル帝国は日本への再攻撃の決意を固めます。
しかし、なぜモンゴル帝国は執拗に日本へ戦をしかけるのでしょうか?
先の『文永の役』の時は、南宋と日本の関係を断ち切るためだった、という理由がありますが、今回はすでに南宋を征服しています。
使者を殺された報復、日本の資源獲得、という理由はもちろんあるでしょうが、最大の目的は、南宋の投降兵をどうにか減らしたい、という理由です。

フビライ・ハーン
南宋の投降兵をどうすべきか・・・。ほったらかしにしておけば、いつか歯向かってくるだろうし、捕虜にすればコストがかかるし・・・。

古代中国に存在した秦(しん)という国は、40万人の捕虜の食料を賄う事ができずに、ほとんどを生き埋めにしてしまった、という事もありました。

フビライ・ハーン
そうだ!投降兵を中心とした日本遠征軍を作ろう!勝ったらそのまま日本を支配させればいいし、負けても我が国の痛手は無い!

大船団襲来

1281年(弘安4年)5月3日、モンゴル帝国は、征服した高麗軍を中心とした東路軍、同じく征服した南宋軍を中心とした江南軍の合計14万人、船4,400隻を二手に分けて日本に向かわせます。
東路軍と江南軍は壱岐で合流して、一気に博多へ攻め入る計画を立てていました。
先発していた東路軍はやがて九州本島に近づきますが、船上から日本側の様子を見て愕然とします。
「あたり一面防塁で埋め尽くされている!」
日本は来るべきに備え、高さ2mにもなる防塁を延々と海岸線に沿って築いていたのです。
東路軍は二手に分かれ、一方は長門(現在の山口県内)が手薄だろう、と見て侵攻。
しかし、日本軍は敵がここにも来るだろうと読み、あらかじめ軍を配置。
東路軍を追い返します。

東路軍は今の福岡市あたりの近海まで後退し停泊。
日本軍は、チャンスとばかりに停泊している東路軍に夜襲。
東路軍は壱岐まで敗走、元々の予定であった江南軍との合流のため待機します。

踏んだり蹴ったりの東路軍

壱岐で東路軍が江南軍との合流のため待機している中、総指揮をとる予定だった人物が病気にかかってしまい、江南軍の出発が大幅に遅れていました。
作戦では、6月15日に壱岐で両軍が合流する事になっていたのに、結局、江南軍が出港したのが6月18日でした。
季節は夏、待機している東路軍の船内は蒸し風呂のようになり、そのせいで食料は腐り、伝染病が蔓延して3,000人もの死者を出してしまいます。
そんな状況の中、ようやく江南軍の先遣隊が壱岐に到着するも、とんでもない事を言います。
「作戦変更。上陸地は博多ではなく平戸にする!」
平戸の警備が手薄という情報をつかんでいた事による作戦変更でした。

7月上旬、平戸島付近で東路軍は江南軍と合流。

神風

両軍は近くの鷹島に集結。
いよいよ日本への総攻撃間近となった7月末、九州地方に大暴風雨が吹き荒れました。
計14万人を乗せた船はほとんど沈没。
なんとか、陸にあがった残兵は日本軍に殺されるか捕虜になるかのどちらかの運命しかなく、結局、2~3万人ほどが捕虜になり、奴隷として働かされるか売り飛ばされたりしました。

このように、日本にとって初めて外国の大規模な軍隊が攻めてきた『元寇』でしたが、まさしく『神風』が日本を救ってくれたのでした。