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【暴力革命】今も公安の監視対象になっている『日本共産党』事件史

日本共産党ロゴ

政府は2021年(令和3年)11月19日の閣議で、日本共産党について「いわゆる『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」とする答弁書を決定しました。
日本共産党は暴力主義的な団体で暴力革命を目指している、という事で、現在においても公安の監視対象団体になっています。
「え?日本共産党って過去にどんな事件を起こしたの?」と疑問に持つ人も多いと思うので、日本共産党事件史を少しだけ書いていきます。

日本共産党の誕生

1917年(大正6年)、ロシアで『共産主義革命』が起きます。

ロシア人
人類皆平等社会を目指すぞ!そのためには暴力革命もいとわない!

共産主義を簡単に言うと、「資本主義社会なので貧富の差が拡大したりしておかしな事になる。みんなの財産はみんなのものとして共同で所有しよう」という事です。
世界革命(大植民地化)を目指していたソビエト連邦(ソ連)のスターリン率いる国際共産党(コミンテルン)は、各国に支部を設立していくのですが、1922年(大正11年)コミンテルン日本支部として日本共産党が誕生します。

リンチ実行犯が名誉役員に

1933年(昭和8年)、日本共産党の中央常任委員だった宮本顕治(けんじ)らが、スパイとして党に潜りこんでいた疑いのある小畑達夫を『査問』、いわゆるリンチで殺害。
もちろん、実行犯は捕らえられて懲役刑を受けるのですが、終戦後、GHQが政治犯釈放の方針を打ち出したので、政府はただちに釈放を開始、宮本らも釈放されました。
(GHQが要求したのは純粋な政治犯の釈放なのに、手続き上のミスでリンチで実際に殺人を犯した宮本も釈放してしまった事が後に問題となりました。)

ここまでは「よくある事件だな」という感想しかないんですが、おどろく事にこの宮本顕治、長らく党のトップに君臨し、最終的に名誉役員にまでなります

当然、週刊誌界隈は黙っているハズもなく、1976年(昭和51年)『文藝春秋』がこの事件をとりあげます。
※『文春砲』でおなじみの『週刊文春』を発行しているのもこの出版社です。

そして、1988年(昭和63年)『国会の暴れん坊ハマコー』こと浜田幸一も吼えました。

浜田幸一
我が党は旧来より、終戦直後より、殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめるような状況をつくり出したときから、日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました。
浜田幸一
昭和8年12月24日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を股間に…針金で絞め、リンチで殺した。このことだけは的確に申し上げておきますからね。

NHKでこの国会審議が生中継されており、急遽NHKは『大草原の小さな家』を再放送するという一幕も。

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日本共産党はこの事件を全否定しています。

日本共産党が計画的に実行した日本最初の銀行強盗

「日本共産党って、戦前から戦争を否定していたんでしょ?」
いいえ、むしろ革命を成功させるための戦争は肯定していました。
上にも書きましたが、日本共産党はソ連のコミンテルンの支配下にありました。
共産主義国は資本主義国に対して戦争してもかまわない、つまり、資本主義からの開放→開放=侵略→ソ連(共産主義)の日本(資本主義)侵略、を党規で肯定していたので、当時の国民や政府が警戒するのも当然だったでしょう。
当然、当時の政府は日本共産党員を取り締まります(彼らは『弾圧』と呼んでいますが)。

党員がバンバン検挙されたことで資金が集まりにくくなった日本共産党は、まずは恐喝、詐欺などで非合法的に資金を獲得、金持ちの支持者に家の金を持ってこさせる、といった方法を考えます。
ただ、こんな事をちまちまやっていても資金獲得の最大の目的である(武装蜂起のための)武器購入はできない、と判断、銀行強盗を計画します。

赤色ギャング事件

赤色ギャング事件を報じた東京朝日新聞の記事(1932年10月7日)

1932年(昭和7年)10月6日の16時頃、バーバリーのコート、覆面というそろいの格好をした日本共産党員3人が拳銃を持って『川崎第百銀行大森支店』に押し入って31,700円を強奪。
後に逮捕、懲役刑を受けます。

この事件の首謀者は、後に建築家となった今泉善一(ぜんいち)で、「企画をもっていったのは自分で、やると決めたのも自分」とインタビューに答えています。
もちろん、日本共産党はこの事件をでっちあげと否定。

戦前、この他にも警察署を襲撃するなどテロ事件を繰り返し起こしています。
では、日本が民主主義国家となった戦後はどうなのでしょうか?

 

戦後も過激政党

「戦後は普通に選挙で票を得るまともな政党になったんじゃないの?」
たしかに、1949年(昭和24年)1月の衆院選では35議席も獲得します。
しかし、まともな政党になったかと言うと、そうでもないようです。

武装革命路線

1951年(昭和26年)10月、日本共産党は以下の方針を決定します。

共産党
日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは間違い!我々は、武装の準備と行動を開始しなければならない!

という事で、日本共産党は組織的に以下のような事件を起こしていきます。

事件発生日時 事件名 事件詳細
1952年(昭和27年)1月21日 白鳥事件 札幌市警の白鳥一雄警部が日本共産党員に射殺される。
1952年(昭和27年)5月1日 血のメーデー事件 第23回メーデーにて、日本共産党分子や朝鮮人大学生らが使用を禁止されていた皇居前広場に乗り込もう、とデモ隊を扇動。死者2名、負傷者1000名以上の惨事となった。
1952年(昭和27年)6月24日 吹田事件 日本共産党分子、在日朝鮮人を中心とした約1000人が朝鮮戦争反対のデモ行進を行ったが、途中暴徒化し警察官などを襲撃。
1952年(昭和27年)7月7日 大須事件 日本共産党と祖国防衛隊(在日朝鮮人の組織)が連携して約1000人の暴徒を使って警察やアメリカ軍施設を火炎瓶攻撃。
1952年(昭和27年)7月30日 曙事件 日本共産党員が山梨県南巨摩郡曙村の資産家を人民裁判にかけ、財産を村民に分配すると主張して、小学生3人を含む資産家一家に重傷を負わせ現金を強奪。
1952年(昭和27年)8月7日 横川元代議士襲撃事件 日本共産党員13人が活動資金を得るために、資産家でもある横川元代議士の体中を切り付けて重傷を負わせる。

当然これらの事件は新聞で報道されて国民の知るところになります。
1952年(昭和27年)10月の衆院選で日本共産党候補は全員落選しました。

今は一見ソフト路線だけど・・・

1952年(昭和27年)の衆院選、そして翌年の参院選で候補者全員が落選し、危機的な状況になった日本共産党は今までの暴力革命路線から転換、今に続いています。
今の日本共産党は過去のように暴力的ではなく「弱者の味方」というイメージを持っている方もいるでしょう。
しかし、冒頭にも書いたように、いまだ公安の監視対象団体です。
監視対象という事は、つまり、暴力的な何かを起こす恐れがある、という事です。

民主集中制

日本共産党は、中国共産党と同じ『民主集中制』という制度で党を運営しています。
一部上層部だけに権力を集中させる、いわば独裁制です。
もし、日本共産党が政権をとったら中国のようになってしまうのか?
日本共産党は以下のように反論しました。

日本共産党の党規約解説本では、民主集中制はあくまで共産党内部の原則であり、同党が政権獲得した場合、日本社会全体が民主集中制に移行させられるという批判に対して「われわれ自身の内部規律だということを、しっかりとおさえて反論することが大事です」と述べている。
出典:民主集中制 - Wikipedia