川路利良(かわじとしよし)と聞いて多くの人は「誰?」と思うでしょう。
初代警視総監で現在の警察制度を作り出し、その思想は今の警察に引き継がれるほど。
一方、警察官らしからぬ破天荒なエピソード、そして鹿児島が生んだ英雄でありながら、地元では「裏切り者」としていまだ人気は低いままなのです。
『川路のキンタマ』と讃えられる
幕末、川路は『戊辰戦争』に薩摩軍の大隊長として参戦します。
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。
出典:戊辰戦争 - Wikipedia
戦闘中、敵から狙撃されて弾丸が股間に当たってしまいます。
しかし、弾丸が貫いたのは陰嚢(金玉袋)だけで金玉自体は無事でした。
女子にはわかりにくいと思いますので、わかりやすい図を描きました。
もし、戦場で怖がって金玉袋が縮み上がっていたら睾丸がやられていました。
平常運転だったから、『棒』と『金』との間を弾丸が貫いて一命を取り留めたのです。
この逸話は、川路の豪胆さを示し『川路のキンタマ』と讃えられました。
パリにてう○こを投げつける
政権を奪取した薩摩藩、長州藩を中心とする新政府は日本の近代化のために多数の役人を外国派遣させます。
要は、向こうの法律や制度を勉強し、ごっそり日本に持ち帰って国内向けにアレンジする仕事です。
川路は同郷の先輩である西郷隆盛から「おはん、ポリスをやれ(当時、警察という言葉はなく輸入語をそのまま使っていた)」と推薦されて、警察制度の研究のために欧州へ派遣されます。
それは、パリへ向かう列車内で起きました。
乗っていた客車には通路がなかったため、トイレに行くには座席をいくつも乗りこえて行く必要がありました。
持参していた日本の新聞を床に敷き、毛布を肩からかぶって全身を覆い、他人の目からは何をしているのかわからない状態で大いに排便。
放出したモノを新聞紙でそ~っと包み、窓から投げ捨てました。
翌日、川路は現地の新聞を読んでビックリ。
その新聞で「日本人が列車から大便をほうり投げ、保線夫に命中した」と報じられてしまいました。
う○こを当てられた保線夫が怒って警察署に駆け込んだところ「これは日本語で書かれた新聞だ。投げたのは日本人に違いない」という事で書かれた記事ですが、幸いなことに川路が犯人だ、という事まではわかりませんでした。
恩師、西郷との決別
帰国後、現在に通じる警察制度を確立した川路は、1874年(明治7年)に創設された警視庁の初代大警視(後の警視総監)になります。
大警視就任時の川路は40歳、いまだに破られていない史上最年少記録です。
今だと大卒後18年で警視総監になるのは無理でしょうね
川路の警察にかける情熱は凄まじく、自分の仕事が終わってから毎晩東京中の派出所や警察署を視察していたので、睡眠時間は4時間未満だったようです。
遡って、1873年(明治6年)に『征韓論』で敗れた西郷は政府をやめて鹿児島に帰りますが、その際に多くの薩摩藩出身者の将兵や官員も集団辞職して西郷に従い下野しました。
西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」という説もある)
出典:征韓論 - Wikipedia
しかし、同じ薩摩藩出身の川路は「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と、『私』よりも『公』を優先するわけです。
この頃、明治維新で武士階級を失った不平士族が各地で反乱を起こします。
川路は、薩摩藩出身の警察官中原尚雄(なかはらなおお)らを、里帰りを表向きの名目として鹿児島へ派遣します。
実際は不平士族達の離間工作のための帰郷です。
しかし、工作の為に潜入した事がバレてしまい、激しい拷問を受けたあげく自白書をとられます。
その自白書には鹿児島潜入目的は「西郷を『刺殺』するため」、という意味の事が書かれていましたが、後年、中原は「鹿児島を『視察』するため」だった、と言っています。
『刺殺』と『視察』、どちらが事実なのでしょうか。
個人的には、政府は西郷を暗殺して反乱を事前に防ぎたかったのだと思います。
結局、この事が直接的な原因となり、1877年(明治10年)に鹿児島県 VS 日本政府の『西南戦争』が始まります。
【これが史実】西郷隆盛が歩んだ歴史をわかりやすく解説するよ《明治編》
鹿児島県民に嫌われた川路
結局、西南戦争は政府軍の勝利に終わりました。
川路は鹿児島県民から「西郷の恩を仇で返した裏切り者」というレッテルがはられる有様でした。
「100年以上前の話だし、今はそんなことないでしょ?」
いえ、当時ほどではないにしても、いまだ川路を嫌っている鹿児島県民は多いようです。
西南戦争は、例えば、東京で軍人になった長男と、西郷軍の次男が戦う、という身内同士が戦うケースが多かったのですが、その原因を作った川路がこのように嫌われるのも頷ける部分はあるんです。
ただ、近年ようやく名誉が少し回復しつつある段階にきているようですが、なかなか根が深いです。
平成11年(1999年)に当時の鹿児島県警察本部長・小野次郎らの提唱で鹿児島県警察本部前に銅像が設置されるなど、現在の地元でも人気があまりないながらも、ようやくその功績や人物像が再評価の段階に入りつつある。
出典:川路利良 - Wikipedia
1879年(明治12年)10月13日病没。
享年46。