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【酒乱】大砲で民家を破壊し妻を殺した内閣総理大臣『黒田清隆』

黒田清隆

連日報道される政治家の不祥事。
そのほとんどはお金絡みだったり、失言だったり・・・。
しかし、そんな不祥事が霞むくらいのとんでもない不祥事を連発した政治家が、明治時代に総理大臣まで勤め上げた黒田清隆です。
とても義理人情にあつく政治家としても有能だった彼が、なぜ大きな不祥事を連発してしまったのでしょうか。

『無血』へのこだわり

薩摩藩の下級武士の家に生まれた黒田は、兄と慕った西郷隆盛の影響を受け、できるだけ争いを避けるよう努めます。

生麦事件

1862年(文久2年)8月、22歳の黒田は藩の大名行列に随行していました。
大名行列が今の横浜市にある生麦村(なまむぎむら)を進んでいた時に、観光中のイギリス人が乱入する、という事件が発生。

武士
大名行列に乱入とは!切捨御免!
黒田清隆
待て!早まったらアカン!やめんかい!

黒田は抜刀しようとする藩士を止めました。
結局、別の藩士がイギリス人を斬り殺してしまい、イギリスとの間で『薩英戦争』が勃発、黒田も参加しました。

『薩英戦争』の後、江戸で西洋砲術を学び皆伝を受けます。
(この砲術で、後にとんでもない不祥事を起こしてしまいます。)

北越戦争

1868年(明治元年)に始まった『戊辰戦争』の一局面『北越戦争』に、黒田は新政府軍の参謀として参戦します。
敵方の長岡藩の家老である河井継之助の能力を知った黒田は、「長岡藩を降伏させ、河井を新政府の重要ポストに登用すべき」と考えて、河井に書簡を送るも届かず。
河井も黒田との談判を希望していたが、会談に現れたのは若輩者の岩村精一郎。
結局、談判は決裂、長岡藩と戦争になり、河井は戦争で死去。

函館戦争

『戊辰戦争』の最終局面『函館戦争』で黒田は戦いの総指揮をとります。
旧幕府軍を『五稜郭』に追い込んだ黒田は、敵の将である旧幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)に対して降伏を勧める書簡を送ります。

黒田清隆
翌朝、『五稜郭』への総攻撃を開始します。降伏するならお申し出下さい。
榎本武揚
降伏する気はございません。存分に攻めて下さい。

この、降伏を勧める敵側の将に好感をもった榎本は使者にある書物を渡します。

榎本武揚
この『海律全書』はオランダから持ち帰った大切な本です。これからの日本の為に役立てて下さい。

黒田も榎本に対して好感をもちます。

黒田清隆
武器や弾薬の不足はありませんか?
榎本武揚
申し出はありがたいですが、弾薬は十分にあります。

黒田をはじめ、新政府軍の面々は「これほどの学識をもった人を殺すのは惜しい。新政府で登用したい」と考え、再度降伏を勧めます。
(榎本は7ヶ国語を話せるほど語学に優れ、政治家であり化学者でもありました。)

黒田清隆
もう一度言います。降伏して下さい。
榎本武揚
わかりました。ただし、お願いがあります。私の命と引き換えに部下を助けてくれませんか?
黒田清隆
部下の方はもちろんですが、これからの時代は榎本さんが必要です。私が責任をもって榎本さんの命を守ります。

黒田に武士道を感じた榎本は降伏します。
戦後、榎本は投獄されるのですが新政府の中には厳罰を求める声も多く、黒田は剃髪してまで助命嘆願に奔走します。

丸坊主の黒田清隆

※左:丸坊主にした黒田清隆

その成果あって榎本は約2年半後に釈放され、伊藤博文に継いで総理大臣になった黒田清隆内閣で農商務大臣、文部大臣を務め、その後の内閣でも大臣を歴任しました。
後に、榎本の息子と黒田の娘が結婚して、血縁関係にまでなったのでした。

 

酒に酔って起こした不祥事

さて、ここまではいい話を書いてきましたが、ここからが本題、黒田の起こした不祥事を書いていきます。

大砲をぶっ放して民間人殺傷

事件は1876年(明治9年)7月30日に起こります。
北海道開拓長官だった黒田(当時36歳)は、札幌農学校の教師で「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士や札幌農学校一期生と一緒に元軍艦の『玄武丸』という船に乗っていました。
船上、ある事で黒田とクラーク博士は口論になります。

黒田清隆
◎△$♪×¥●&%#?!!
ウィリアム・スミス・クラーク
◎△$♪×¥●&%#?!!
黒田清隆
クッソー、頭きた!

船が北海道の小樽市にある『赤岩山』にさしかかった頃、酒に酔っていた黒田は鬱憤を晴らすように、陸に向かって大砲をぶっ放したのです。
陸地にはいくつかの民家が建っていましたが、そこは幕末に西洋砲術の皆伝をとっている黒田、民家を避けるようにぶっ放すも酔っ払っていたために照準がズレて砲弾は民家を直撃。
猟師の娘を殺害してしまう、という惨事になりました。
(後日、黒田は猟師に示談金を支払い解決。)

酒に酔って妻を惨殺

1878年(明治11年)3月28日、黒田は泥酔して帰宅します。
妻の清(きよ)が、黒田が通いつめていた芸者との仲について問い詰めます。

清
あなた、またあの芸者と会っていたんですか!?
黒田清隆
・・・。
清
あなた!!
黒田清隆
え~い、うるさい!!

黒田は、逆上して日本刀で袈裟懸けに妻を切り倒してしまいました。
物音に気づいた家人達は、現場を見て青ざめますが、すぐさま、同じ薩摩藩出身の大警視(警視総監)である川路利良(かわじとしよし)に急報します。

川路利良
黒田さん、安心して下さい。懇意の医者に奥さんの死因は『病死』と診断させます。家人の方達もこの事は決して口外しないように。

このように揉み消しを図るも、人の口を完全に閉じさせる事はできません。
数日後には雑誌で報道され、黒田の妻殺しが一気に世間に知れ渡ります。
川路は騒動を収める為に黒田夫人の墓を発掘し、こう言いました。

川路利良
皆よく見ろ。他殺の形跡はないではないか。これは、病死である。

川路のこの行動で、なんとか世間の風評も収まりました。

しらふの時は凄腕政治家

上にあげた他にも、酒に酔って「会議には出席しない!」と駄々をこねてピストルで迎えの者を追い返す、政敵である井上馨(かおる)外務大臣の家に刀を持って侵入し、井上の妻を脅す、といった不祥事をやらかします。
酒が原因で不祥事をいくつも起こした黒田ですが、以下のように重要なポストについたのは政治の能力が高かったからでしょう。

明治20年(1887年) 農商務大臣
明治21年(1888年) 内閣総理大臣
明治25年(1892年) 逓信大臣
明治28年(1895年) 内閣総理大臣臨時兼任

1900年(明治33年)8月23日に脳出血で死去。享年59。
葬儀委員長は榎本武揚がつとめました。