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【殉死】日本史上親しみを込めて『さん』付けされた数少ない英雄『乃木希典』

乃木希典

『乃木坂46』というグループがいますが、このグループ名の由来はオーディション会場がこの地にあったから。
そして、『乃木坂』という地名は、大日本帝国陸軍の乃木希典(のぎまれすけ)大将を悼んでつけられました。
地名になるほどであり、また、日本史上で『西郷さん』とならんで『さん』付けされる数少ない『乃木さん』とはどういう人だったのでしょうか?
そのドラマティックな生涯を追ってみましょう。

連隊旗を奪われる大失態

明治10年に『西南戦争』という日本で最後の内戦が起こりました。
図で表すとこんな感じです。

勢力 ボス 戦力 目的
旧薩摩藩士族 西郷隆盛 約30000 明治政府打倒・武士の特権の復活
明治政府 有栖川宮熾仁親王 約70000 四民平等・日本の近代化

当事の鹿児島県は、政府が打ち出す政策を無視して独立国家の如くでしたので、まさしく鹿児島県 VS 日本といった構図でした。
この内戦で、陸軍の少佐として従軍していた28歳の乃木は、敵の西郷軍に連隊旗(旭日旗)を奪われてしまいます。

天皇陛下から授かった大切な連隊旗を敵に奪われた事は相当屈辱的であり、乃木はわざと戦場の最前線に立ったり、自殺を図ったり、とにかく死のうとします。
また、突然行方不明になったので捜索したところ、3日後に山中で断食しているところを発見される、という事もありました。

「連隊旗(軍旗)ってただの旗でしょ?そんなに大事なもの?」

大日本帝国時代、連隊旗は天皇の分身とされて大変神聖視されたので、コレを奪われるのは大事件だったんです。
ただ、今回のケースは奪われた状況から不可抗力として不問になり、連隊旗は再授与されているのですが、乃木は生涯この時の事が付きまとうことになります。

その後は、死にきれなかったという思いがあったのか酒浸りの日々が続きます。
料亭で毎日のように宴会を開き、その様子は『乃木の豪遊』として有名になるほどだったのですが、妻子はたまったもんじゃなかったようで一時別居したほどでした。

ドイツ留学から別人のようになって帰国

明治政府は、陸軍をフランス式からドイツ式に切り替えるという事で、少将に昇進した乃木は視察目的でドイツ帝国への留学を命じられます。
やがて1年半後に帰国すると、「本当に乃木か?」というほど全くの別人になってしまったのです。

  留学前 帰国後
料亭 毎日日記に書く程どんちゃん騒ぎ 一切近寄らず
芸妓 毎日日記に遊んだ芸妓の名前を書く程遊びまくり 芸妓が出る宴会は必ず欠席
服装 遊び人のような服装 寝る時意外はずっと軍服

ドイツから帰国後の乃木が、広く知られている乃木希典のイメージでしょう。

 

日露戦争に従軍

乃木は1904年(明治37年)2月に中将、第3軍司令官として『日露戦争』に従軍します。
戦場は朝鮮半島、中国大陸です。
日本から戦場へ物資や兵隊を補給するためには、日本海を船で渡らなければいけません。
当時は今のようなレーダーはありませんから、ロシアの戦艦が一隻でも日本海に侵入すると補給路が危険にさらされる恐れがあったのです。

そこで、乃木率いる第3軍の目的は今の中国、旅順(りょじゅん)にある要塞の攻略でした。
ロシアは、艦隊を旅順港に配備し、その艦隊を守備するように周りの山々に要塞を作っていました。
補給路の安全確保には旅順艦隊の殲滅が必須で、艦隊を殲滅させるためには港を守っている要塞を潰す必要があったのです。

旅順艦隊殲滅のもう一つの理由は、北ヨーロッパのバルト海に配備されているロシアの『バルチック艦隊』が大西洋からインド洋を経て、日本海に回航される事が判明しており、『バルチック艦隊』と『旅順艦隊』が合わさると勝ち目がないので、『バルチック艦隊』が合流するまえに『旅順艦隊』を殲滅させないといけない、という非常に厳しい状況だったのです。
ちなみに、『バルチック艦隊』は後に下記のような航路でやってきました。

バルチック艦隊航路

出典:http://homepage3.nifty.com/ryuota/20c/nihonkai.html

旅順攻囲戦での大損害

旅順攻囲戦図

出典:http://holywar1941.web.fc2.com/kindai2/kindai-nitiro4.html

実は乃木は1894年(明治27年)の日清戦争』で旅順をたった1日で攻略した実績を持っていたのです。
そのため、『日露戦争』でも旅順攻略を担当したのですが、結果的にとてつもない損害を出してしまう事になります。
どれだけの損害をだしたのかは以下の図をみてください。
ちなみに『日露戦争』全体ではなく、旅順の戦いだけの数です。

  兵力 死傷者
ロシア帝国軍 約45,000 約18,000
大日本帝国陸軍 約100,000 約60,000

なぜ、こんなにもおびただしい死傷者が出たのでしょうか?
まず、当時は飛行機は発明されたばかりでまだ戦場には登場せず、戦車もない時代です。
要塞を落とす主な戦術は鉄条網を一つずつ破って少しづつ進み、体を敵に晒しながら機関銃で攻撃、だったのです。
(後に『二十八糎榴弾砲』という大砲が配備されました。)
当然、要塞側から雨のように弾が飛んできます。
しかも、ロシア軍が世界で初めて実戦で運用した『マキシム機関銃』の威力が凄まじかったので、これだけの死傷者が出てしまったのです。

マキシム機関銃

当然、あたり一面死体だらけの凄惨な状況でしたが、お互い同意のもとで休戦して死体を埋葬しました。
さらに、お互いの国の酒やタバコを交換して談笑したり記念写真を撮影する等のエピソードも残っています。
二十八糎榴弾砲

約4ヶ月半後、多数の死傷者を出しつつも旅順要塞を攻略、結果的に旅順艦隊を殲滅する事ができましたが、なかなか要塞を攻略できない事で東京にある乃木の家には石が投げ込まれ、「切腹しろ!」といった手紙が2000通以上も届いたといいます。

ちなみに、旅順での戦いが終わった後両軍が旅順市街でどんちゃん騒ぎした、というエピソードが有名です。
戦争はあくまで国同士の関係で個人的な恨みはない、という事だったんですね。

 

世界に賞賛された乃木

水師営会見

旅順での戦いはロシアが降伏し、日本の勝利に終わります。
旅順要塞司令官のステッセル将軍と会見で、乃木は武士道精神で降伏したロシア将兵への帯剣を許しました(上の写真)。
普通、降伏した側が剣を帯びる事は考えられないので、この行為は世界に報道され賞賛されました。

しかも、敵国のロシア誌までもが乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載して賞賛。
下の絵がロシア誌『ニーヴァ』に掲載された乃木の絵です。

『ニーヴァ』誌

さらに、「本当に?」と思うかも知れませんが、世界的に、特にロシアに苦しめられていたポーランドやトルコでは子供に『ノギ』『アルツール(旅順)』と名づける親が頻発しました。

奉天会戦

旅順を落とした乃木率いる第3軍は、『日露戦争』最後の会戦となった中国大陸にある奉天での会戦に参加します。

大日本帝国陸軍 ロシア帝国軍
約240,000 約360,000

第3軍はロシア軍の猛攻にあいながらも進軍を続け、対等に戦ったことでロシア側は第3軍は10万の兵力がある(実際には4万弱)、と誤解し、退却してしまいます。
これが、奉天会戦の勝敗を決定しました。
このように、陸軍が勝利し、海軍も『日本海海戦』でバルチック艦隊を殲滅し完勝。
『日露戦争』は(ギリギリですが)日本の勝利によって終わりました。

敵将の家族に生活費を送り続ける

戦後、ステッセル将軍はロシア皇帝より敗戦の責任を取らされ死刑を宣告されてしまいます。
これを聞いた乃木はロシア皇帝に対して、ステッセル将軍が死力を尽くしてロシアのために戦った事を訴え、死刑取りやめを嘆願した手紙を送ります。
その結果、死刑から流刑に減刑されました。
乃木は残されたステッセル将軍の家族に、自身が死ぬまで生活費を送り続けました。

殉死

自刃当日朝の乃木夫

1912年(大正元年)9月13日の明治天皇大葬の日に、乃木は妻と自刃しました。
この写真は、自刃当日の朝に撮影されたものです。

自刃の理由として、遺書にはこの記事の冒頭に書いた、28歳の時に『西南戦争』で敵に連隊旗を奪われた事をあげています。

そして、遺書には書いていませんが、『日露戦争』で自身の息子2人を含む多くの若者を死なせた事も理由の一つでしょう。
明治天皇に『日露戦争』で多数の死傷者をだした事に対し「割腹して罪を償いたい」と申し出ましたが、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」と言われ、思いとどまった経緯があります。
明治天皇が崩御した事により、約束を守ったのでしょうか。

乃木の訃報は欧米の新聞でも多数報道されました。
また、ステッセル将軍は香典を送っています。

1912年(大正元年)9月13日自刃。享年62。