時代劇で有名な大岡越前。
『大岡裁き』に代表されるように、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は名奉行と言われていますが、実際はどうだったのでしょうか?
江戸南町奉行
1717年(享保2年)、41歳の時に将軍・徳川吉宗によって江戸南町奉行に任命されます。
町奉行の平均就任年齢が60歳程と言われていたので、忠相は大変優秀だったのでしょう。
奉行の主な仕事は裁判、警察、行政など幅広かったため、大変な激務で在職中の死亡率は他の役職に比べ、飛び抜けて高かったそうです。
忠相は、そんな激務な町奉行を41歳~60歳までの19年間もこなしたのです。
大岡裁き
『大岡裁き』とは大岡越前守忠相が行った裁判のことですが、その中で最も有名な話はコレでしょう。
ある子供の母親を名乗る女性が2人現れます。
どちらも「この子の母親は私!」と、互いに一歩も譲らないので、とうとう忠相の奉行所で決着をつけることになり、その方法として忠相はこう言います。
その言葉に従い、女性2人は子供の腕を引っ張り合いました。
当然、子供は「痛い!痛い!」と悲鳴をあげ、かわいそうに思った片方の女性は腕を離してしまいます。
勝利した女性が子供を連れて帰ろうとしたところ、忠相が静止します。
勝利した女性は納得がいかず食い下がりますが、忠相はこう言いました。
母親の愛情をしっかり見切って裁いた大岡越前。
これにて一件落着、というお話なのですが実は創作です。
旧約聖書に書かれている「ソロモン王が子供を取り合う2人の女性を裁いた話がもとになっている」という説もあり、大岡越前のその他の名裁きもほとんどが創作、もしくは他の裁判官の名裁きで、本人が実際に裁いたのは平凡な内容でした。
では、なぜ大岡越前守忠相は名奉行と呼ばれるようになったのでしょうか?
司法改革で庶民の支持をGET
実際は特に名裁きのなかった忠相をなぜ庶民は名奉行に仕立て上げたのでしょうか?
理由の一つとして、忠相が行った司法改革があげられます。
改革前 | 改革後 |
---|---|
罪を犯すと家族や一族まで処分 | 家族や一族も処分する『連座制』を廃止 |
当然のように行われていた拷問 | 冤罪防止のため拷問を重罪者のみに制限 |
耳そぎ刑、鼻そぎ刑 | 耳そぎ刑、鼻そぎ刑を廃止し入れ墨刑へ |
遠島刑、追放刑 | 遠島刑、追放刑を制限し罰金刑へ |
このような改革に庶民は喜びます。
さらに、「彼こそ名裁判官!」と言わしめる出来事が起こります。
冤罪を見破る
ある時、伝兵衛という男が目明しの源七に放火の罪で捕えられます。
諸役人(与力・同心)の配下で犯罪捜査と犯人逮捕のために働いた者。犯罪人を釈放して目明しとした場合が多く,警察機構の末端に位置した彼らの不法行為に庶民は大いに苦しめられた。
伝兵衛は北町奉行所へ連行され、奉行の諏訪美濃守(すわみののかみ)に尋問され、放火の罪を認めます。
刑は火あぶり。
ところが、「放火があった日、伝兵衛は主人の家にいた」という噂が広がります。
南町奉行所の忠相はこの噂を聞きつけ、諏訪に連絡して伝兵衛を再度尋問するよう要求しました。
諏訪は伝兵衛から再度事情を聞くと「目明しの源七に拷問するぞ、と恐喝されて恐ろしくなって嘘の自白をしてしまいました」と白状。
伝兵衛を無実の罪に陥れた目明しの源七は死罪になり、伝兵衛は釈放されました。
この冤罪事件の後、町奉行所は以下の高札を立てます。
万一、無実の罪に陥った者があれば、遠慮なく再吟味を申し出るように
最終的に1万石の大名に列せられた大岡越前守忠相は、1751年(寛延4年)死去。享年75
死後、忠相は庶民の英雄と化します。
他人の行ったあらゆる名裁きは忠相の行ったものとされ、今に語り継がれていくのでした。