1891年(明治24年)5月、当時世界から最も恐れられていた大国ロシアの皇太子が来日。
将来ロシア皇帝となって独裁的な権力を持つだろう人物に、日本政府は好感をもってもらおうと国をあげて歓迎。
しかし、好感を抱かせるどころか、国家の危機に瀕しかねない事態が起こります。
武力誇示するために訪日?
ロシアの皇太子ニコライは、シベリア鉄道極東地区の起工式典への出席のため、ロシア海軍の艦隊を率いてウラジオストク(札幌から日本海を挟んで左側にある都市)へ向かう途中、日本へ立ち寄る事になりました。
「シベリア鉄道極東地区の敷設は極東(日本)侵略のための準備じゃないか?」
このようなロシアへの恐怖を日本は持っていました。
また、ロシア皇太子一行の乗った軍艦の停泊地をめぐり駐日ロシア公使シェーヴィチが外務大臣青木周蔵にとった態度が、今回の訪日は日本侵略への下準備ではないか、という憶測をさらに強めました。
ロシア側の強硬な態度に屈して日本は要求をのみ、皇太子一行を乗せたロシア軍艦が長崎、鹿児島に立ち寄り、そして神戸に入港しました。
『大津事件』発生
「7隻もの最新鋭の軍艦で来るなんて、やはり軍事的圧力ではないか?」
そう疑いつつも、将来大国ロシアの皇帝となる人物に好感を抱かせる事は安全保障上重要だ、という事で国を挙げてロシア皇太子一行を歓迎します。
国の近代化をスタートさせてから20年ちょっと、『大日本帝国憲法』が施行されてからわずか半年しか経っていない小国の日本は、例えば京都では季節外れの五山送り火を実施するなどニコライを接待します。
5月11日、ニコライ一行は琵琶湖を観光。
滋賀県庁で昼食を食べて、滞在先の京都へ人力車で帰る途中、大津町内で警備を担当していた滋賀県警巡査の津田三蔵が、突然ニコライにサーベルで斬りかかります。
津田は負傷して人力車から降りて路地へ逃げ込んだニコライを追いかけ、さらに斬りかかろうとしましたが、人力車夫らに取り押さえられました。
ロシアへ全力謝罪
すぐさま東京にいる明治天皇へ事件の顛末を電報。
天皇は御前会議を開き、事件の顛末を聞いた政府要人達の顔から血の気が引きます。
「この事件をきっかけにロシアが攻めてくるんじゃないか?」
「当然今の日本に勝ち目はなく、ロシアの植民地になってしまうのでは・・・。」
おそらく、神戸港に停泊している7隻の軍艦だけで日本を負かす事が可能でしょう。
または、賠償金名目でどこかの島がとられる事も予想されます。
政府は、明治天皇をすぐさまニコライが宿泊している常盤ホテル(現・京都ホテル)へ赴くよう手配。
事件翌日(5月12日)早朝に明治天皇は東京新橋駅から汽車に乗車、13日に京都で療養中のニコライを見舞います。
この返答を聞いた明治天皇は「東京行きが中止になるとロシアとの関係が悪化するかもしれない」と落胆したといいます。
国民も全力謝罪
小国日本の平民が大国ロシアの皇太子を斬りつけた、というニュースは日本中をかけめぐりました。
「天皇に倣って我々も見舞いを」と、国民からニコライへの見舞い電報は1万通に達し、学校は休校して謹慎の意を表し、ニコライの平癒を願う祈祷が、神社、寺、教会で行われました。
犯人、津田三蔵の名前をつけてはいけない、という条例が作られたところも。
山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した。
日本国民の気持ちがニコライに届く
明治天皇、そして日本国民の誠意が届いたのか、ニコライは本国にいる皇帝に「東京に行きたい」と訴え、皇帝は了承します。
しかし、ロシア公使シェーヴィチは東京行きに反対、皇后を動かし、本国から3日後に離日するよう命令を下させる事に成功します。
天皇を拉致?
明治天皇は神戸の御用邸での午餐会にニコライを招待し、ニコライはそれに応じようとしましたが、ここでもシェーヴィチが強硬に反対します。
そして、逆に天皇をロシア軍艦での午餐会に招待しました。
当然侍従達は必死に止めます。
しかし、天皇は侍従達の反対を押し切り招待を受け入れ、午餐会に出席しました。
ある女性の自刃
5月20日、午餐会を終えニコライ一行は日本を発ちました。
「明治天皇の謝罪もむなしくロシアの皇太子が日本を発ってしまった」と多くの日本国民は思いました。
ここで、畠山勇子(はたけやまゆうこ)という女性がある行動にでます。
この事件を口実にロシアが攻めてきたら日本は滅亡する、と思いつめた勇子は5月20日19時過ぎ、京都府庁に嘆願書を投函、府庁前で自刃。享年27。
犯人の処罰によってはロシアと戦争?
ロシア側は日本国民、日本政府の誠意ある態度に満足し、この事件の賠償については一切要求しない、と日本側に伝えました。
しかし、犯人の津田三蔵の処罰については話が別です。
「ロシア側を納得させるには極刑しかない」という声が強かったのですが、日本には外国の皇族に危害を加えた場合の法律がありません。
もちろん、一般人に危害を加えた場合の法律はありますが、この法律を適用すれば最高でも無期懲役になります。
この事をロシア公使シェーヴィチに伝えると、こう恫喝してきました。
「とにかく犯人の津田を殺さないとロシアとの間で戦争が起こってしまう」
ある大臣は「津田三蔵を暗殺すればよいのだ」と言いましたが、伊藤博文は「そのような無法は許されぬ!我が国は法治国家だ!」と大激怒しました。
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『大逆罪』を適用するか否かの攻防戦
山田顕義(やまだあきよし)司法大臣はこう考えます。
旧刑法第116条
天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
しかし、 大審院(最高裁判所)長の児島惟謙(こじまいけん)は待ったをかけます。
総理大臣の松方正義はこう泣きついてきます。
幕末、日本は諸外国との間に不平等条約を結ばされました。
例えば、日本国内で外国人が罪を犯しても、日本に裁判権はありませんでした。
日本は法治制度が十分でない後進国、との認識があったからです。
「もし、今回の事件で法をまげて津田を死刑にするような事になれば、日本の司法の信用が失墜し、諸外国からますます見下され、不平等条約の改正が困難になる」といった意見書を児島は提出します。
内閣のほとんどが津田の死刑を要求する中、児島、および、裁判を担当した判事たちは『大逆罪』の適用は不当である、として津田に無期懲役の判決を下しました。
司法権の独立の維持に貢献した児島は「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受けた。
判決についてロシアへ説明
日本政府はロシア側に判決の説明をしました。
ロシア側は「我が国の皇太子に危害を加えた者と、一般人に危害を加えた者の処分が同一である事が不快だ」と日本へ抗議しましたが、ロシア皇帝は「日本の法律に基づいて処分したのだから何も言うまい」と、今回の件は静観する構えを見せました。
犯人の津田を死刑にしないとロシアとの間で戦争になってしまう恐れがありましたが、明治天皇や日本政府、日本国民の真摯な態度がロシアの態度を軟化させたのでしょう。
また畠山勇子の自刃も大きかったでしょう。
彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書やセンセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともになし)につながったとの評価もある。
ロシアとの衝突を何とか回避できた日本ですが、13年後、明治天皇を頂点とした日本と、皇帝となったニコライを頂点とするロシアとの間に『日露戦争』が勃発するのでした。
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