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【これが史実】西郷隆盛が歩んだ歴史をわかりやすく解説するよ《明治編》

西郷隆盛

倒幕を成し遂げた西郷隆盛は、隠居しようと鹿児島(薩摩藩)へ帰国します。
しかし、藩の状況が平穏とはいえない中、西郷は人々から請われるがままに藩政に復帰し、藩の改革に着手していました。

【これが史実】西郷隆盛が歩んだ歴史をわかりやすく解説するよ《幕末編》

トラブル続きの明治政府

幕府に代わって政権を運営している明治政府には様々なトラブルが生じていました。
政府は倒幕に功績のあった人々に対して『論功行賞(頑張ったご褒美)』を行っていましたが、その恩賞は倒幕の中心となった薩摩藩、長州藩出身者に厚く、政権のイスもこの両藩が多数を占めるなど、成功の果実を独占している薩摩、長州に対する非難は相当なものでした。
また、薩摩、長州間での人事争い、役人の豪奢っぷりや汚職など、自分たちの事しか考えていないようにみえる政府への人心は離れつつありました。

民衆
政府は攘夷(日本から外国人を追い払う)と言っていたのに、今は外国人にペコペコしているじゃないか!

抗議の割腹自殺

1870年(明治3年)7月26日の夕刻、旧薩摩藩士の横山安武(やすたけ)が津軽藩邸前で静かに正座します。

横山安武
今からここを汚すが、どうか勘弁して欲しい。

守衛が呆気にとられている間に、横山は素早く腹に短刀を突き付けて28歳の生涯を終えました。
横山はあらかじめ集議院(衆議院ではありません)の門扉に『時弊十条』と記した政府に対する直訴状を挟んでいました。
「旧幕府の悪弊がいつの間にか新政府にうつってしまい、かつて幕府に対して"非"としていた事が、新政府は"是"としている」から始まり、以下の十ヶ条が続きます。

【時弊十条】

.民衆が大変貧しい生活をしている事を察せず、大官以下の役人は大変贅沢だ。

.外に向けて虚飾を張り、内に向けて名利を貪る官員が少なくない。

.政令は朝に出て夕に変わるため(朝令暮改)、民衆は大変戸惑っている。

.旅行の費用を不当につり上げている。

.人を用いる際、剛直な者を尊ばずに能者(物事がよくできる人物)を尊んでいる。その為、日に日に軽薄の風が広がっている。

.政府が行っている人事は、「官の為に人を求める」のではなく、「人の為に官を求める」というやり方である。

.官員の間に酒食の交際が多い。

.外国との交渉方法が慎重でなく、実に軽卒である。

.人事に基準がなく、多くは愛憎をもって行われている。

.政府内は私利の取り合いで、この状態が続けば国家は滅ぶしかない。

やがて、この事件は世間で話題となり政府への風当たりが一層強くなります。

西郷待望論

大久保利通
西郷に上京してもらおう。

この状況を打開するため、既に巨大な人望をもっていた西郷に出仕してもらい、西郷のリーダーシップで政府を改革する必要がある、と政府の中心にいた大久保利通らは考えたのです。
大久保は、西郷の実弟である従道(つぐみち)に説得を依頼します。

1870年(明治3年)10月、ヨーロッパ視察から帰国した従道は、すぐに鹿児島にいる兄・隆盛の元を訪ね政府の実情を説明。

西郷従道
大久保さん達が兄の上京を待ち望んでいます。

弟から政府の内情を聞いた西郷は、大いに呆れ嘆き悲しみ憤ります。
「多くの犠牲の上にできた新政府がこのままでは潰れてしまう」、西郷は新政府を立て直すため東京に行くことを決意します。

しかし、薩摩藩主・島津忠義の実父である久光の存在が、西郷を容易に上京させませんでした。
久光は、『島津幕府』を期待して『戊辰戦争』で西郷、大久保らが勧めるまま軍隊を差し出しましたが、蓋を開けてみると徳川幕府亡き後はかつての家臣が明治政府の大官として殿様よりも豪奢に振る舞い、そんな彼らが実施する急進的な施策に対してはことごとく反対の意見を表明していました。

島津久光
西郷、行くな。

そんな明治政府に西郷を協力させるわけにはいきません。
事情を知った大久保は、久光が「OK」と言わざるを得ない状況を作り出すために天皇の力を使います。
上京を命じる勅使(ちょくし)を西郷と久光に送る事にしたのです。

天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。
出典:勅使 - Wikipedia

1870年(明治3年)12月、岩倉具視(ともみ)と大久保自身が勅使となって鹿児島へ。
西郷と久光に上京の勅命を伝え、西郷の東京行きが決定。
1871年(明治4年)1月4日、西郷は鹿児島を出発し東京へ向かいました。

廃藩置県

上京して明治政府に参加した西郷は、まず、明治維新の原動力となった薩摩藩、長州藩、土佐藩からそれぞれ兵を出させ(計1万人)、近代日本最初の国軍『御親兵(ごしんぺい)』を創設します。

遡って、1869年(明治2年)6月に『版籍奉還』が実施されました。

明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。
出典:版籍奉還 - Wikipedia

実際には藩主は知藩事と名を変えただけで、これまで通り大名が藩を統治していました。
これでは「江戸時代とほぼ変わらない」という事で、政府は『版籍奉還』に続く改革である『廃藩置県』に取り掛かろうとしていました。

明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。
出典:廃藩置県 - Wikipedia

政府が大名から土地と人民を取り上げる政策のために当然大きな抵抗が予想されましたが、万が一抵抗があった場合は西郷率いる『御親兵』が鎮圧する、という計画が立てられました。
そして、1871年(明治4年)7月14日、政府は『廃藩置県』を発布。

【負け組?】『県庁所在地』の名前が『県名』と一緒じゃない県

『御親兵』が睨みをきかせていた事で、これほどの大改革にも関わらず大きな混乱はありませんでしたが、かつての家臣である西郷と大久保が中心となって実行した『廃藩置県』に島津久光は激怒。
政府への抗議の意味を込めて、自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせました。

島津久光
ええ~い!花火を打ち上げ~い(怒)!

留守内閣

『廃藩置県』からわずか4ヶ月後の1871年(明治4年)11月、主に西洋文明の調査を目的とした、特命全権大使岩倉具視をはじめとする総勢107名の『岩倉使節団』が横浜港を出港しました。

岩倉使節団

※左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

明治政府の重要人物が日本を離れるという状況の中、西郷を中心とした留守内閣は問題山積みの日本の運営をまかされる事になり、『岩倉使節団』が洋行中の2年弱の間に様々な改革を実施します。

学制・徴兵令・地租改正・太陽暦の採用・司法制度の整備・キリスト教弾圧の中止などの改革を積極的に行った
出典:留守政府 - Wikipedia

 一方、朝鮮との間で外交上の大きな問題が発生しました。

征韓論

『征韓論(せいかんろん)』とは、当時鎖国状態にあった朝鮮を武力を使って開国させようとする主張です。
なぜ、留守内閣でこのような「おせっかい?」な主張がでてきたのでしょうか?
日本は朝鮮半島に『壁』の役割を期待していました。
朝鮮が開国して力をつけて宗主国である清国とともに、やがて南下してくるであろうロシアと対等に渡り合う事を望んだのです(30年後、ロシアは南下し『日露戦争』が勃発します)。

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日本と朝鮮は豊臣秀吉の朝鮮侵攻で一時国交を断絶した事があるものの、朝鮮は日本の将軍が代替わりするたびに数百人からなる『朝鮮通信使』を派遣するなど、ずっと(建前上は)対等に交際してきました。
※実際は日本は朝鮮を『下』に見ていましたが、朝鮮は紛争を避けるために黙認していました。

江戸時代後期になると『国学』『水戸学』といった日本古来の伝統を追求する学問が普及し、『三韓征伐』といった古代日本が朝鮮半島を支配下においた逸話が親しく読まれるようになった事、『朝鮮通信使』の無作法(モノを盗む、乱暴する、壁に唾をはく、階段に小便をする、日本人女性を孕ませる・・・etc)が広まった事などで、朝鮮人に対する蔑視が強まっていきます。

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一方、朝鮮は同じ鎖国仲間だった日本がペリーの黒船来航以降、諸外国と次々に条約を結んだ事に納得せず、やがて日本と朝鮮は国交断絶状態になっていきます。

このような状況の中で明治維新を迎えた日本は、朝鮮との国交を復活させようと、朝鮮に対して国交回復の使者を派遣します。

朝鮮人
何だこの国書は!『皇』『勅』という文字があるじゃないか!けしからん!

『皇』『勅』は、朝鮮の宗主国である『清』の皇帝だけが使用できる文字であり、日本が使用するのはけしからん、という事で日本からの国書の受け取りを拒否しました。

その後も政府は朝鮮に国書を送るも、朝鮮は拒絶。
朝鮮国内で排日の雰囲気が強まる中、参議の板垣退助は軍隊派遣を主張します。

閣僚にあたる卿より上位で、さらに上位にある右大臣、左大臣、太政大臣などが実質的権限を持たない場合が多かったため、職掌分担なしに閣僚たちを指導する、いわば集団制の政府首班として位置づけられる。
出典:参議 - Wikipedia

板垣退助
朝鮮に滞在する居留民を保護するため、速やかに派兵しましょう。

しかし、同じく参議で実質的トップの西郷は派兵に反対します。

西郷隆盛
派兵は止め、全権大使を朝鮮に派遣して朝鮮政府を説くことが一番の良策であると思います。

西郷の案に他の参議らは賛成しましたが、同じく参議の大隈重信が異議を唱えます。

大隈重信
そのような重大事は、岩倉公の帰国を待ってから決定されるのが良いのでは?

この大隈の意見に西郷は「堂々たる一国の政府が国家の大事に際してその是非を決定できないようなら、今から太政官の正門を閉じ政務一切をとるのを止めた方がいい!」と一喝。
西郷の迫力に大隈は黙る事しかできませんでした。

西郷隆盛
朝鮮へ派遣する全権大使を自分に任命してもらいたい。

西郷は続けて「こじれている日朝関係を解決できるのは自分だけだ」と主張します。
今の朝鮮の状況では最悪殺害されてしまう恐れがあるため、当然ながら西郷の派遣に反対する意見も出ました。
しかし、西郷は引き下がらず、この日の閣議では結論がでませんでした。

明治六年政変

1873年(明治6年)8月17日、約1ヶ月間議論されていた西郷の全権大使就任が決定します。
しかし、9月に帰国した岩倉は時期尚早としてこれに反対。
同じ『岩倉使節団』として洋行し、西郷の朝鮮派遣に反対の立場である大久保、木戸孝允を参議に就任させて朝鮮派遣を中止させようとします。
こうして、『莫逆の友』だった西郷と大久保は真っ向から対立。

西郷隆盛 大久保利通
西郷隆盛 大久保利通
すぐに派兵するのではなく、まずは使節を派遣するのが筋道だ。 使節の派遣はさらなる軋轢を生んで戦争に繋がる。
今の日本は戦争できる国力がない。
安易に戦争しないために使節の派遣が必要。 今の朝鮮の状況では使節は必ず殺されて戦争になる。

このように両者の主張は平行線を辿りますが、10月15日に開かれた閣議で西郷の全権大使就任が再び決定されました。
これに異を唱えた大久保、岩倉らは辞表を提出。

三条実美
あわわわわわわわわ・・・。

太政大臣の三条実美(さんじょうさねとみ)は、西郷と大久保&岩倉の板挟みになった心労から錯乱状態となって倒れ、人事不省となってしまいます。
あとは、太政大臣が閣議の結果を天皇に奏上すれば西郷の朝鮮への派遣が正式に決定する、というタイミングでの急病に西郷はやきもきします。

そして、勅命によって右大臣の岩倉が太政大臣代理に。
西郷は板垣らと岩倉邸を訪ね、すでに閣議で決定している使節派遣を奏上するよう岩倉に迫ります。

岩倉具視
私は使節派遣に反対だ。賛成意見、反対意見ともに奏上する。

閣議では賛成と決まったにも関わらず、これを無視して両方の意見を天皇に奏上すると言い、西郷らの要求を突っぱねたのです。
両方の意見を奏上するといっても、反対派の岩倉が奏上するという事は実質的に天皇に反対意見を奏上するようなもの。
その結果、岩倉の反対意見が天皇に容れられ、西郷の朝鮮派遣無期延期が決定。
この決定を受けて、征韓派の西郷、板垣、江藤新平ら参議、政治家、軍人、官僚ら600人以上が次々に辞職する事態となりました。

鹿児島へ帰郷

西郷や、西郷に同調して辞職した旧薩摩藩出身者は続々と鹿児島へ帰郷。
西郷は、帰郷してからは政治的な事には関わらずに大半を自宅で過ごしますが、その間、以下の大事件が次々と発生し政情が不安定になっていきます。

1874年(明治7年)1月14日 喰違の変 右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件
1874年(明治7年)2月1日~3月1日 佐賀の乱 元参議の江藤新平がリーダーとなって起こした明治政府に対する士族反乱
1874年(明治7年)5月6日~12月3日 台湾出兵 台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害された事による明治政府の報復措置

このような状況の中、鹿児島では明治政府への不満を糧に血気盛んな士族の若者がのさばっており、彼らをコントロールするための受け皿を作る必要がありました。

私学校

1874年(明治7年)6月、西郷は『私学校』を設立します。
※公立に対する私立の学校という事で『私学校』。

『私学校』は『幼年学校』『銃隊学校』『砲隊学校』からなり、目的は外国からの軍事的脅威に備えるための軍人養成と、不平士族の暴発を防ぐ事にありました。

西南戦争前夜

1876年(明治9年)3月28日、『廃刀令』が発せられた事で不平士族の怒りは頂点に。

大礼服着用の場合並びに軍人や警察官吏などが制服を着用する場合以外に刀を身に付けることを禁じる内容の太政官布告。

出典:廃刀令 - Wikipedia

この年の10月には立て続けに不平士族による反乱が起こります。

1876年(明治9年)10月24日~10月25日 神風連の乱 旧肥後藩の不平士族がが熊本県で起こした反乱
1876年(明治9年)10月27日~11月4日 秋月の乱 旧秋月藩の不平士族が福岡県秋月で起こした反乱
1876年(明治9年)10月28日~12月8日 萩の乱 元参議の前原一誠をリーダーとした不平士族が山口県萩で起こした反乱
1876年(明治9年)10月29日 思案橋事件 旧会津藩士永岡久茂らが東京思案橋で起こした反乱未遂事件

「次は西郷をリーダーとした旧薩摩藩士が反乱を起こすのでは?」
この時、鹿児島県は『私学校』党が県政を牛耳る程までに勢力を拡大しており、中央(東京)の影響を受けない半ば独立国家のような状況にありました。

警視庁の大警視(現在の警視総監に相当)である旧薩摩藩出身の川路利良(としよし)は、西郷や『私学校』生徒の動向を探り、不平士族達の離間工作を行う密偵として旧薩摩藩出身の警察官中原尚雄(なおお)ら24名を、1877年(明治10年)1月11日に「帰郷」名目で鹿児島に送り込みます。

【不祥事】う○こを投げつけた初代警視総監『川路利良』

一方、『私学校』関係者は、政府が(不平士族の戦力を削ぐために)鹿児島の陸軍火薬庫から武器や弾薬を大阪への移送を計画していると知り、1月30日の夜、陸軍火薬庫を襲撃して武器、弾薬を強奪。
この行動が飛び火して県内の火薬庫が次々と襲撃される事態に。

2月1日、大隅半島の小根占で狩猟をしていた西郷のもとに、約20歳程年の離れた弟の西郷小兵衛(こへえ)らが訪れます。

西郷小兵衛
(私学校)生徒が陸軍の火薬庫を襲いました・・・。
西郷隆盛
しまった!なんちゅうことを・・・。

すぐさま西郷は鹿児島城下へ戻ります。

2月3日、中原が『私学校』関係者に捕縛されて激しい拷問を受け、潜入した目的についてこう自供します。
「西郷を『しさつ』するため」

中原は『視察』と言ったつもりですが、私学校側は『刺殺』ととらえます。
※この当時、官僚用語としての「視察」には「偵察」という意味もありました。

2月6日、大評議が開かれ、政府の罪を問うために大軍を率いて上京する事に決定。

西郷隆盛
おいの体をおはん達に差し上げもんそ。

西郷は挙兵が決定した際、部下達にこう言いました。

西南戦争

1877年(明治10年)2月15日、鹿児島で60年ぶりとなる大雪の中、薩軍(西郷軍)の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発し、ここに現時点で日本最後の内戦である『西南戦争(西南の役)』が開始されました。

2月19日、政府は『鹿児島県逆徒征討の詔』を発して出兵を決定。

2月20日、熊本県川尻に到着した薩軍の諸隊と、熊本鎮台から派遣された偵察隊が鉢合わせし、実戦が始まります。

2月21日、順次川尻に到着した薩軍は、軍議で『熊本を抑えつつ主力は東上』ではなく、『全軍による熊本城強襲』という作戦を採用してしまいます。
※後に最も拙劣と言われた作戦です。

この日、政府軍の乃木希典少佐率いる歩兵第14連隊の軍旗が薩軍に分捕られる、という、事件が発生します。

【武士道精神】日本史上親しみを込めて『さん』付けされた数少ない英雄『乃木希典』

政府がすぐさま熊本へ大兵団を送り込んだ事、熊本鎮台が徹底抗戦した事で薩軍は熊本城を陥落させる事ができず、南下しながら激しい戦闘を繰り広げます。
特に『田原坂』では、銃弾同士が空中で衝突した際にできる『空中かちあい弾』が多数見つかりました。
恐ろしいほどの数の銃弾が至近距離で飛び交っていた事が想像できます。
※『田原坂』では今も銃弾が出土しています。

その後も薩軍は転戦を続けるも戦局を挽回する事ができず、8月16日、西郷は宮崎県長井村において正式に軍を解散します。

我軍の窮迫、此に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯其の欲する所に任ぜよ。
出典:西南戦争 - Wikipedia

残った精鋭で、故郷の鹿児島に戻って最後の決戦をしようと考えたのです。

城山決戦

1877年(明治10年)9月1日、鹿児島に戻った薩軍は『城山』を中心に布陣。
政府軍はこの動きを察知し、『城山』を取り囲むように要塞を作ります。

城山

9月24日午前4時、政府軍の総攻撃が開始されました。
死を決意した西郷と将兵らは『城山』を下山し始めます。
西郷のまわりにいた将兵らは次々と銃弾に斃れていき、西郷も股と腹に被弾。

西郷隆盛
晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう。

西郷は、そばにいた別府晋介に向かってこう言いました。

別府晋介
御免なったもんし!

別府は西郷の首を切り落とした後、その場で自決。
西郷隆盛、享年49。
西郷の死を見届けた将兵らは、自決、または戦死し、午前9時に『西南戦争』は終結しました。

その後

西郷は政府に楯突いた『逆賊』としてその生涯を終えました。
※後に『大日本帝国憲法』発布に伴う大赦で名誉回復。

西郷の死の知らせを聞いた大久保利通は号泣し、鴨居に頭をぶつけながら家の中をグルグル歩き回り、西郷の事が大好きだった明治天皇は「西郷を殺せとは言わなかった・・・」と漏らした、と伝えられています。

1878年(明治11年)5月14日、大久保が不平士族に暗殺されます(『紀尾井坂の変』)。
その時、大久保は手紙2通を懐に入れていました。
そのうち1通は西郷からの手紙で、洋風な恰好をした大久保の写真を見た西郷が「醜態極まるからもう写真を撮るのはおやめなさい」という茶化した内容でした。

この手紙を大久保が最期に持っていたことに、2人の絆の深さが伺えるような気がします。

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【謎】写真を1枚も残さなかった西郷隆盛の本当の顔