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【もののふ】武士がどのように誕生してどのように消滅したのかわかりやすく説明するよ

侍たち

長らく日本の支配層だった武士。
明治維新で武士が消滅した、というのはご存知かと思いますが、いつ、どのように武士という階級が現れて、どういった理由で武士が消滅したのかをできるだけわかりやすく書きました。

農民が武士になっちゃった

701年(大宝元年)に全国民、全土地は天皇と国家のモノ(公地公民)」という法律『大宝律令(たいほうりつりょう)』が公布されました。
その法律の中に『班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)』というものがありました。

貴族
田んぼ(口分田)を分け与えるから、そこを耕作して収穫できたもののうち3%を国に収めろ。

この法律は色々と厳しい部分があって、農民が逃げ出し、土地が荒れ、税が徴収できなくなる事例が続出。
「これはマズイということで朝廷(政府)は対策します。

貴族
土地を開墾したらその後三代に渡って土地の私有を認める。

723年(養老7年)、『三世一身の法(さんぜいっしんのほう)』が公布されました。

農民
結局、三代目以降は国に没収されるのでしょ?

自分の死後に土地が没収されるとわかっているので、三代目の頃には土地を手入れせずに荒れ放題になり、作物が収穫できないので税も徴収できません。
こまった朝廷は新たな法律を作ります。

貴族
よしわかった。ずっと土地の所有を認めてやる。 そのかわり、もちろん税も徴収するよ。

743年(天平15年)、『墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)』が公布されます。

農民
今後、代々使える土地なので、奪われないように武装して守らないと。

国から与えられた土地を荘園(しょうえん)といいますが、この荘園を権力を持った国司(地方行政官)が立場を利用して多く税を徴収したり、土地を奪ったりする事が頻発したため、農民自身が武装して土地を守ったのが武士の始まりの一部と言われています。
(朝廷から地方に派遣された国司が、その土地で勢力を伸ばす過程で武装化した集団が武士になった、という説もあります。)

武士が力をつけるきっかけになった『保元の乱』

1129年(大治4年)、長い間政治の実権を握っていた白河法皇が亡くなり、実権は孫の鳥羽上皇に移ります。
鳥羽上皇は、息子の崇徳天皇(すとくてんのう)にこう言いました。

鳥羽上皇
崇徳天皇よ、天皇の座を弟の体仁親王(後の近衛天皇)に譲って、お前は上皇になれ。
崇徳天皇
(体仁親王はまだ3歳じゃないか・・・)

天皇の座を退くと上皇となり、さらに上皇が出家すると法皇になります。

「なぜ天皇が実権を握ってないの?」と思うかもしれませんが、天皇は毎日、朝廷の色々な儀式に時間と労力をかけ、また、常に周囲には大臣などがいるので自由に政治活動ができないのです。
いっぽう、上皇は儀式をやる必要がなく、自分の好きな取り巻きを選ぶ事ができるので自由に政治活動ができます。
こうやって天皇の代わりに上皇が政治を行う事を『院政』といいます。
「じゃあ、崇徳天皇は上皇になれるんだからいいんじゃないの?」
いや、実は上皇になったら誰もが院政できるワケじゃないんです。
弟に譲位した上皇は院政できないんです(子供や孫に譲位した上皇が院政できるのです)。

と言う事で、権力のなくなってしまった崇徳天皇、あらため、崇徳上皇ですが、14年後に近衛天皇がわずか17歳で亡くなった事でチャンスが訪れます。

崇徳天皇
次の天皇候補はうちの子(重仁親王)が最有力だ。

しかし、とんでもない噂が宮廷に広まり、その噂を聞いた鳥羽上皇、あらため、鳥羽法皇は激怒します。

鳥羽上皇
崇徳上皇、貴様、藤原頼長と手を組んで近衛天皇を呪い殺したな!次の天皇はお前の子ではなく、お前の弟の後白河(天皇)にする!

またしても、弟が天皇の座につくことに。
自分の子が天皇になれば、ふたたび院政を実施して権力を手に入れる事ができたのに、弟が天皇だと上皇でも院政はできません。

崇徳天皇
とうとうブチ切れちまったよ・・・。

1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなると、崇徳上皇が権力を取り戻そうと動き出し、壮大な兄弟ゲンカが始まります。

崇徳上皇側 後白河天皇側
藤原頼長 藤原忠通
源為義 源義朝
平忠正 平清盛

後白河天皇には、平清盛や源義朝(頼朝の父)といった大物率いる強力な武士団がついていた事もあり、崇徳上皇は負けてしまい、恨みを晴らす事ができませんでした。

武士達は天皇家に口出しできるくらい影響力を強め、その後700年続く武士政権が誕生するきっかけとなったのがこの『保元の乱(ほうげんのらん)』なのです。

 

武家政権の誕生と消滅

1192年(建久3年)、源頼朝がいい国作ろう鎌倉幕府」でおなじみ、初の武家政権である『鎌倉幕府』を成立させます。
というのは誤りです。
今は、「いい箱作ろう鎌倉幕府」で1185年(元暦2年)に『鎌倉幕府』成立、なのです。
そして、初の武家政権は鎌倉幕府ではなく、さらに10数年前にできた平氏政権が初の武家政権という説がかなり有力なようです。

その後、鎌倉幕府→室町幕府(足利将軍)→南北朝時代→戦国時代→安土桃山時代(織田信長/豊臣秀吉)→江戸幕府(徳川将軍)と、ずっと武士が権力を持ち続けます。

そして幕末、一足先に近代化していた欧州の国はアジアの国をどんどん植民地化していきます。
「こりゃ日本も防衛しないとマズい」という事で、いざ有事のために命を捨てて働けよ、と平時に給与を支払っていた旗本(徳川家直参)の武士達は、江戸時代の長い平和がそうさせたのか使いモノにならなくなっていました。
例えば、江戸時代に出版されたある書物には、威勢のいい町人(火消し)に悪態をつかれて、何も言い返せない軟弱な武士が描かれています。

最後の将軍である徳川慶喜(よしのぶ)は、旗本の軟弱さに嫌気がさして侠客の新門辰五郎(しんもんたつごろう)に警備をまかせたくらいです。

徳川慶喜
新門さんよ。京都二条城の警備を旗本ではなくお前にまかせたい。
新門辰五郎
子分200人を呼び寄せ、これにあたらせましょう。

徳川幕府から政権を奪取した明治新政府は、徴兵制に武士の特権階級は邪魔、そもそも四民平等にしたい、ものすごくお金のかかる軍備の近代化には歳出の30~40%もしめる武士への秩禄(ちつろく=給料)を廃止しないと無理だ、ということで、武士という身分は廃止されました。

当然、各地で旧武士の反乱が起こりました。
佐賀県では『佐賀の乱』、熊本県では『神風連の乱』、福岡県では『秋月の乱』、山口県では『萩の乱』、そして、明治維新最大の功労者である西郷隆盛が1877年(明治10年)に起こした『西南戦争』の終結をもって700年続いた武士の世は終わりを告げたのでした。