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【胸アツ】トルコと日本の時を超えた友情

トルコ国旗

トルコといえば、世界三大料理の一つであるトルコ料理、トルコアイス、ベリーダンス、カッパドキア、イスタンブール・・・が思い浮かびますが、日本人からみると、他のヨーロッパの国にくらべて若干馴染みが薄い感覚があります。
しかし、実はトルコと日本は国レベルの熱い友情で結ばれていたのです。

『エルトゥールル』号が遭難

1887年(明治20年) 小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王殿下がオスマン帝国(現トルコ)のアブドゥル・ハミッド2世に謁見、明治天皇からの親書を手渡しました。

小松宮彰仁親王
明治天皇からの親書です。
アブドゥル・ハミッド2世
ありがとうございます。

「明治天皇から親書、勲章をいただいたので、海軍の訓練もかねて日本へお礼を」と、1889年(明治22年)7月14日、軍艦『エルトゥールル』号が出航。

11ヵ月後に日本に到着し、明治天皇に謁見。
アブドゥル・ハミッド2世からの親書と勲章を明治天皇に奉呈し、「じゃ、帰りますかとなったところで、(ココ重要)日本側が忠告します。
「台風の時期が過ぎるまでやり過ごしたほうがいいですよ」と。
しかし、トルコ側は「いえ、大丈夫ですと言って出航します。

1890年(明治23年)9月16日の夜、帰途の途中に和歌山県樫野崎沖で台風に遭遇。
岩礁に衝突して座礁し、水蒸気爆発を起こし沈没。
爆発音を聞いた村人(現在の串本町あたりの人)は、総出で荒海に飛び込み救助活動。
台風で漁に出ることができなかったために食料の蓄えが少なかったのですが、非常食や衣服を与えて懸命に救護活動を行った結果、69人が生還しました(死亡、行方不明は500人以上)。

その後、日本は69人の生還者を2隻の軍艦でイスタンブールまで送り届けました。
この時の行ないが、約100年後に思わぬ恩返しとなります。

『テヘラン在留邦人救出』事件

1980年(昭和55年)に『イラン・イラク戦争(イライラ戦争)』が勃発します。
1985年(昭和60年)、戦争の最中にイラクのサダム・フセインがとんでもないことを予告します。

サダム・フセイン
48時間後に、敵国イランの上空を飛んでいる航空機を無差別に攻撃する!

 

各国は救援機を手配してイランにいる自国民を脱出させたのですが、就航便のない日本は救援機を手配できません。
政府は日本航空にチャーター便の派遣を依頼するも労働組合が拒絶。

日本航空
安全の保証がされない限りテヘランのメヘラーバード国際空港行きへの臨時便は出しません!

そして、自衛隊機も当時は海外に出せなかったのです。

社会党
自衛隊を海外に出す事は侵略戦争につながる!(By社会党)

各国に救助要請するも断られ絶体絶命。
テヘランの『メヘラーバード国際空港』の出発ロビーに集まっている日本人の中には遺書を書く人もいる中、救世主が現れました。
トルコです。
藁をもすがる思いでトルコ側に窮状を訴えたところ、
「わかりました。ただちに救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせていただきます。」
もちろん、トルコ人もイランに多数在住していましたが、トルコは「イランとトルコは陸続きなので陸路で脱出させますと言って、日本人のためにトルコ航空を手配。
期限ギリギリで200人以上の日本人の命が救われました。

 

『トルコ風呂』撤廃は小池百合子の功績

現在の『ソープランド』はかつて『トルコ風呂』と呼ばれており、「トルコ」と聞くだけで性風俗を思い起こさせる状況に在日トルコ人は憤慨していました。
何とか『トルコ風呂』の名称を撤廃させようと、東京大学に留学していたトルコ人留学生が動きます。

この改名運動の記事が当時TV番組でキャスターを務めていた小池百合子の目に飛び込みます。
小池はトルコ人留学生と連絡をとり「全国に存在するトルコ風呂の名称をどうやって撤廃させるか?」と思案しますが、『トルコ風呂』は正式名称ではなく俗称のため、行政で強制的に変更させる事はできません。
そこで、小池は知り合いを通じて厚生大臣に陳情のアポをとってもらい、同時に記者クラブに状況を説明します。
1984年(昭和59年)9月18日、記者クラブを通す事でテレビカメラが入り、陳情の模様が全国に放送されました。
この効果はてきめんで業界は自主的に名称を変更、公募により『ソープランド』となりました。

翌年(1985年)に日本人救助のためにトルコ航空が手配された一因として、『トルコ風呂』の名称撤廃があったのは否めないでしょう。