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【さすが!?】一味違う織田信長の『論功行賞』

織田信長

戦国時代、大名は将兵のモチベーションを上げるために手柄に見合う褒美、いわゆる論功行賞を与えました。
論功行賞は『一番首』『一番乗り』『一番槍』といった手柄に与えられる事が多かったのですが、織田信長は一味違っていました。

桶狭間の戦い

『桶狭間の戦い』は1560年(永禄3年)5月19日、尾張桶狭間で織田信長軍2,000人が今川義元軍25,000人(織田軍と直接対峙したのは5,000人)を奇襲で破った戦いとして知られています。

一番手柄は誰?

戦場で目立った働きをした武将が2人いました。
一番最初に今川義元に槍をつけた服部小平太と、すかさず義元の首を取った毛利新介です。
『一番槍』と『一番首』という事で、他の武将たちも「服部小平太か毛利新介のどちらかが一番手柄だろう」と予測していました。
ところが、翌日の20日に行われた論功行賞の場で信長が真っ先に呼んだ名前はどちらでもなく、簗田(やなだ)出羽守政綱という名前でした。

簗田政綱(やなだまさつな)

簗田政綱は特に目立った働きをしていた、という訳ではありませんでした。
にも関わらず、信長は彼を一番手柄としたのです。
また、服部小平太と毛利新介は信長の直臣でしたが、簗田は普段は農業経営に携わり、戦の時だけ槍を担いで馬にまたがる地侍でした。

貴重な情報

19日当日、今川軍は尾張と三河の国境近くの沓掛(くつかけ)を出発します。
沓掛は簗田の本領だった事から、今川軍の様子をよく観察する事ができました。

簗田政綱
今川軍の兵は総勢25,000程ですが、そのうち20,000はだいぶ先に進み、義元の本隊は5,000程です。
簗田政綱
さらに、義元は馬ではなく輿に乗っています。
簗田政綱
今川軍が進んでいる方向からすると目的地は大高城でしょう。おそらく途中にある桶狭間山で昼食休憩をとると思われます。

このように、今川軍の進路、休憩地点を予測して信長に報告していたのです。

 

奇襲

この当時、武将には軍配者とよばれる技術者が仕えており、気象状況から吉凶を占っていました。
信長にも伊束(いそく)法師という軍配者が仕え、昼から豪雨になる事を予測し信長へ上申。

織田信長
天も我らの味方じゃ!桶狭間山の義元の本隊を奇襲じゃ!

信長は簗田からの情報を元に桶狭間山に奇襲をかける、という作戦をとり、今川軍に勝利する事ができました。
そして、信長は武功よりも奇襲作戦のきっかけとなった情報を届けた簗田を一番手柄にしたのです。

簗田政綱の手柄は本当?

おばちゃん
武功よりも情報を提供した方の手柄を上にするなんて、信長はさすがや~ん!

簗田の一番手柄は信長が情報を重視していた証・・・と司馬遼太郎は小説『国盗り物語』に書いています。
しかし、証拠となる史料は存在せず、そもそも簗田政綱が一番手柄をとった、という史料すら確認されていないのです。

今川氏が領有していた沓掛を、戦後に簗田政綱が手に入れたのは事実ですが、どのような手柄の褒美だったのかはわかっていません。