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【おいごと刺せ!】『寺田屋』で起こった同士討ちの悲劇と怪談話

寺田屋

By Tamago915 - Photographed by Tamago915, CC 表示-継承 3.0, Link

幕末の『寺田屋事件』で有名な京都にある観光名所『寺田屋』といえば、坂本龍馬の妻であるお龍が裸のまま龍馬に危機を知らせた、というエピソードが有名ですが、実は仲間同士が殺しあった凄惨な事件もあったのです。

遂に島津久光がやってくれる?

幕末、「周辺のアジア諸国が次々と西洋諸国に植民地にされている。このまま弱腰の幕府にまかせていたら、いずれ日本もヤラれてしまう。幕府を倒し天皇を中心とした新たな政府を作って国防を強化しないといけない」という思想を持つ諸藩の志士達が、一番希望を託していたのが大藩の薩摩藩でした。

ある時、薩摩藩の指導者である島津久光が兵千人を率いて京都に上る、という噂が流れます。

攘夷派志士1
久光公が兵千人率いて上洛してくるらしいぞ。
攘夷派志士2
時は来た!同士を京に集め、久光公を首領として蜂起しよう!

しかし、この時の久光には幕府を倒すという意思は全くなく、「朝廷の力を使って幕府の政治を改革したい」と思っていました。
また、久光は朝廷から過激派志士の鎮撫にあたるよう命じられます。
「この騒ぎを納めれば朝廷の信頼を得る事ができる」、久光はそう思ったでしょう。

この噂を聞いた薩摩藩の過激派志士達は強行策にでます。

過激派志士のLINE

薩摩藩の有馬新七(しんしち)をリーダーとした過激派志士達は『寺田屋』に集結します。
この情報を得ていた久光は、側近の大久保利通ら数人に過激派志士達への説得を次々に試みさせますが失敗。
説得に失敗した別の薩摩藩士は責任を感じて切腹してしまいます。

襲撃決行日が近いと知った久光は、再度過激派志士を説得するよう指示しますが、万が一説得に応じなかったら上意討ちせい!」、つまり、仲間だけど斬り殺しても構わないという指示を出します。

1862年(文久2年)4月23日の夜、久光の命を受けて『寺田屋』に到着した奈良原繁(しげる)らは過激派志士達を説得します。
しかし、いっこうに埒があかない状況に説得側の道島五郎兵衛(みちじまごろべえ)がブチ切れます。

道島五郎兵衛
君命に従わぬのかぁ!上意!

道島は田中謙助の頭部を斬り、ここに薩摩藩同士の斬り合いが始まりました。
激高した有馬は道島に斬りかかります。
しかし、刀が折れてしまったので道島と取っ組み合い、壁に押さえつけ、近くにいた橋口吉之丞に・・・

有馬新七
おい(俺)ごと刺せ!

と命じ、橋口は有馬ごと道島を串刺しにして刺し殺しました。
結局、説得側は道島1名が死亡、過激派志士側は6名死亡、後に2名切腹、となりました。

 

田中河内介の悲劇

過激派志士の中には薩摩藩士ではない人物もいました。
田中河内介(かわちのすけ)もその一人です。
もともとは、明治天皇が4歳になるまでの教育係をしていて、赤ちゃんの明治天皇をおぶって子守唄を歌うなど、明治天皇も大変なついて『河内介爺』と呼んでいました。

「幕府の政治はダメだ」と倒幕という目標に向かっている最中、『寺田屋事件』で捕縛されます。
田中は、「薩摩藩お預かりのため鹿児島に護送する」という名目で鹿児島に向かう船上で息子と一緒に斬り殺され、海に投げ捨てられました。

時は変わって明治2年頃、明治天皇は「そういや、田中河内介というものがいたが今はどうしている?」とまわりの者に尋ねます。
明治維新は薩摩藩を中心とした勢力が革命の果実を手にしており、明治天皇の側近にも薩摩藩出身者がたくさんいました。
もちろん、自藩が関わっていたので「我々の同士が斬り殺しました」なんて事は言えずに黙りこくっていると、小河一敏(おごうかずとし)という人が「ここにおられる薩摩の者が指図して、船上にて刺殺されましたと暴露、非常に重苦しい空気が流れた、と言います。

後に『田中河内介の最期』を話すと呪われる、という怪談話が流行りました。
実際は「話したら(薩摩藩士が)殺すよ」、という警告がいつしか怪談話になったのでしょう。

幕末、理不尽な殺し方をされた人はたくさんいますが、なぜ田中河内介だけがこのように怪談話にまでなったのか?
なぜ、後に天皇を中心とした政府を作り上げた薩摩藩は、皇室に深く関わっていた田中河内介を殺したのか?
怪談話にする事によって口外を禁止したい理由があったのか?
気になりますねぇ。

ギャー!