徳川幕府約260年の歴史の中で、天皇は長く政治の舞台から遠ざけられてきました。
孝明(こうめい)天皇も平和な時代に即位していれば、他の天皇と同じように平穏無事に暮らせていたでしょう。
しかし、幕末という激動期に16歳で即位し、いくつもの日本国を揺るがす大事件に遭遇、わずか36歳で崩御。
その死は、当時から毒殺説が囁かれていました。
権威が落ちていく朝廷
孝明天皇の話をする前に、なぜ江戸幕府は朝廷よりも優位な立場だったのでしょうか。
そのあたりを話してみましょう。
戦国時代、朝廷(天皇を中心とした政務を行う機関)の財政は窮迫していました。
一方、農民などの低い身分から戦国大名になった人は、官位というステータスが欲しくてたまりませんでした。
各地の大名達は朝廷へ献金、朝廷は見返りとして大名達に「従五位下」などの官位を発給しました。
成り上がりの大名達は「官位というステータスが欲しい」、朝廷は「お金が欲しい」という事でお互いWin-Winだったのですが、官位を乱発する朝廷の権威が落ちていくのは必然でした。
大スキャンダル『猪熊事件』
江戸時代初期、京都に猪熊教利(いのくまのりとし)という公家がいました。
当時流行していたかぶき者のいでたちをし、大変な美男子で、彼の髪型や帯の結び方が京都で流行する程でした。
かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。他にも天鵞絨(ビロード)の襟や立髪や大髭、大額、鬢きり、茶筅髪、大きな刀や脇差、朱鞘、大鍔、大煙管などの異形・異様な風体が「かぶきたるさま」として流行した。
出典:かぶき者 - Wikipedia
しかし、この猪熊は相当女癖が悪く女官や人妻に手を出す始末。
1607年(慶長12年)2月、とうとう堪忍袋の緒が切れた後陽成天皇(ごようぜいてんのう)から勘当され、京都から追放されてしまいます。
が、しかし、猪熊はいつの間にか京都に戻り、懲りずに仲間の公家を誘って女官らと大乱交を重ねます。
1609年(慶長14年)、この事を知った後陽成天皇は大激怒。
猪熊は九州へ逃げますが、やがて捕らえられ死罪。享年27。
『禁中並公家諸法度』
徳川家康は『猪熊事件』の報告を聞くやいなや朝廷の調査を命じます。
すると、思いのほか大人数が関わっており、しかも名門の出身者ばかりである事が判明。
憤慨した後陽成天皇は「全員死罪!」と吠えますが、家康は「全員死罪にすると大混乱必至」と考え、朝廷に介入。
猪熊と他一名は死罪にしたものの、その他の関係者は流罪、いわゆる島流しとなりました。
1615年(慶長20年)、幕府は「天子諸芸能の事、第一御学問なり」、つまり「天皇は学問だけに打ち込む事」から始まる『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を定め、これにより、幕府 > 朝廷 の力関係が決定づけられ、天皇は長く政治の舞台から遠ざけられる事になります。
孝明天皇
1831年(天保2年)6月14日、仁孝(にんこう)天皇の第4子として誕生した孝明天皇は、1846年(弘化3年)に16歳という若さで第121代天皇に即位します。
平穏な時代であれば学問だけに打ち込む事ができたのでしょうが、即位から7年後の1853年(嘉永6年)、アメリカのペリーが浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航した事で、政治の表舞台に登場せざるを得なくなってしまいます。
黒船来航を機に国内では攘夷論が高まり、孝明天皇も強く攘夷を唱えていました。
外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想
出典:攘夷論 - Wikipedia
当初、幕府はアメリカとの条約を結ぶにあたり、「世論を納得させるために孝明天皇の勅許(天皇の許し)を得る必要がある」との方針でしたが、孝明天皇は勅許を拒否。
アメリカの圧力に屈した幕府は1858年(安政5年)6月19日、勅許を得ないまま『日米修好通商条約』という日本にとって不平等な条約をアメリカと結び、後に幕府の政策への反対論者を弾圧した『安政の大獄』、幕府の大老井伊直弼(なおすけ)が暗殺された『桜田門外の変』といった大事件につながっていきます。
井伊直弼が暗殺されて以降、権威が完全に失墜した幕府は朝廷との融和を図るため、『公武合体』を画策します。
朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論
出典:公武合体 - Wikipedia
幕府は、将軍の徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)を結婚(降嫁)させる事で『公武合体』を推し進めようとしました。
孝明天皇は難色を示すも、侍従の岩倉具視(ともみ)に意見を求めます。
孝明天皇は岩倉の意見をいれ、幕府は「10年以内に鎖国の体制に戻す」と約束。
和宮は家茂との政略結婚を受け入れました。
【実はラブラブ】政略結婚で徳川家茂と結婚させられた皇女『和宮』
岩倉具視首謀説
1866年(慶応2年)の11月頃から孝明天皇は高熱や頭痛を訴え、発疹を生じるなど日増しに容体が悪化していき、12月25日、崩御。享年35。
死因については、天然痘による病死説とヒ素中毒による毒殺説があって、いまだに真相は明らかになっていません。
現在まで毒殺説がささやかれるのは、岩倉具視の存在が大きいでしょう。
日米修好通商条約 | 孝明天皇に勅許を出させまい、として政治運動 | 尊王攘夷のスタンス |
安政の大獄 | 朝廷と幕府の関係悪化を危惧 | 公武合体(幕府寄り)のスタンス |
和宮の降嫁 | 『公武合体』を強力に推進 | 公武合体(幕府寄り)のスタンス(その後、尊王攘夷派の工作により失脚) |
岩倉村にて蟄居中 | 尊王攘夷に転じて薩摩藩の討幕派と接近 | 討幕のスタンス |
このように、岩倉は変わり身早く、策士の顔が見え隠れする人物である事がわかります。
孝明天皇は徳川慶喜将軍や、会津藩の松平容保を最も信頼していました。
岩倉ら討幕派にとって、孝明天皇が邪魔な存在であった事は間違いないでしょう。
孝明天皇には堀河紀子(もとこ)という妾がいました。
岩倉の異母妹です。
岩倉が首謀、妹が毒物を投与した実行犯、という説は根強く残っています。
そして、孝明天皇亡き後のトントン拍子感が毒殺説を際立たせます。
1866年(慶応2年)12月25日 孝明天皇崩御
1867年(慶応3年) 1月 9日 15歳の睦仁(むつひと)が明治天皇に即位
1867年(慶応3年) 1月15日 大赦により追放されていた親長州派の公卿らが復権
1867年(慶応3年)10月14日 『大政奉還』により幕府から朝廷へ政権返上
1867年(慶応3年)12月 9日 『王政復古の大号令』にて新政権樹立
明治新政府樹立後の1871年(明治4年)、岩倉は右大臣に就任し、実質的に政治の実権を握ります。
同時代にイギリスの駐日公使館に勤務していたアーネスト・サトウは著書にこう書いています。
なお、現在まで病死説、毒殺説ともに明確な証拠がなく決着には至っていません。