幕末、長岡藩(今の新潟県)に河井継之助(かわいつぎのすけ)という家老がいました。
世間一般的にはあまり有名ではない偉人ですが、実はプロ野球チーム『阪神タイガース』と関係があるのです。
幕末の偉人とプロ野球チーム、どう関係しているのでしょうか?
無類の遊女好き
『阪神タイガース』との関係を説明する前に、まずは河井継之助のエピソードを紹介。
『英雄色を好む』なんて言いますが、継之助も例外ではありませんでした。
江戸へ遊学中のある時、通っていた塾で熱心に本に○、×といった記号を書き込んでいました。
勉強しているのかと思って覗き込むと、吉原の遊女一覧、いわゆるガイドブックに今までお相手してもらった遊女を「この遊女は良かった」「この遊女はいまいち」と熱心に○、×といった記号を書き込み、その傾向から、次にお相手してもらう遊女を考えていたという・・・。
1853年(嘉永6年)にペリーが黒船で江戸湾に侵入してきた際、継之助は藩の命令で兵を率いて品川を警備する事になっていましたが、「ペリーは攻めに来たのではく開港を求めに来たのに、勘違いして沿岸を警備して貧弱な武装を相手に見せるのは愚策だ!」として、勝手に兵を解散させてしまい、自分はというと大好きな遊郭に登楼してしまいました。
なかなかの好色っぷりです。
長岡藩では遊郭を禁止
遊学を終えて長岡藩に帰ってからも、先祖が残してくれていたお金まで使って遊郭に出入りしていた筋金入りの遊郭好きだった継之助ですが、藩の指導者となってからは風紀が乱れる、という事で長岡藩の遊郭を全て廃止させました。
継之助の遊郭好きは有名でしたので、この処置は意外だったようで、そしておそらく遊郭を運営していた人が作ったのでしょうか、こんな唄が流行りました。
可愛い(河井)可愛い(河井)と
今朝までおもひても
今では愛想も 尽き(継)之助
手の平を返した継之助への皮肉でしょう。
しかし、職を失った遊女に対して一時金と故郷への旅費を出すなどアフターケアをしっかりとしていたようです。
また、妾も禁止、という当時としては革新的な改革を実施しました。
長岡藩を武装中立国へ
『戊辰戦争』(新政府軍と旧幕府軍の戦い)が始まると、継之助は金を工面して最新式の武器を大量に購入します。
自身が長岡へ帰るまでに以下のように軍資金を稼いで武器を大量購入しました。
江戸藩邸から藩主を長岡へ帰させる
↓
江戸藩邸を処分し家宝などを全て売却
↓
売却で得た金で暴落していた米を購入
↓
米を函館に運んで売却
新潟との為替差益で儲ける
↓
武器商人(ファブルブラント商会、スネル兄弟)から
ガトリング砲
アームストロング砲
2,000挺のエンフィールド銃、スナイドル銃などを購入
↓
長岡へ帰還
ガトリング砲は当時日本に3つしかなく、その内の1つを継之助が購入しました。
ハンドルを回すと弾丸が大量に発射される機関銃の前身のような武器です。
このように最新式の武器を大量購入したのは、長岡藩を当時のスイスのような武装中立国にしようとしたからです。
武装中立国にする最大の目的は、薩長を始めとした新政府軍と、徳川幕府側(特に会津藩)の調停でした。
小千谷談判の決裂
『戊辰戦争』で新政府軍は京都から徐々に北進。
奥羽(東北地方)まで進軍した時に、中立の立場だった長岡藩が新政府軍と戦わざるをえなくなった事件が新潟の小千谷で設けられた会談の席で起こります。
この時、新政府軍軍監の土佐藩の岩村精一郎は24歳、継之助は42歳、親子ほどの年齢差でした。
当時20代前半の岩村は思慮が浅く、継之助の訴えを一蹴し、僅か30分で会談は終了、交渉が決裂しました。
岩村の失敗は、最新鋭の武器を持つ長岡藩を敵にまわしたこと(実際、新政府軍は甚大な被害をうけます)、継之助を捕縛せずに帰してしまった事です。
ちなみに、1937年(昭和12年)に小千谷談判が行われた慈眼寺に『小千谷談判記念碑』が建てられました。
除幕式に継之助の甥と岩村の甥が招かれましたが、岩村側が反省の態度を見せなかったので、結局和解には至らなかったようです。
『北越戦争』
岩村は「中立の長岡藩も賊軍」という扱いをしたため、長岡藩は新政府軍と戦う事を決意、『奥羽越列藩同盟』に加入し『北越戦争』が始まりました。
戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟である。
出典:奥羽越列藩同盟 - Wikipedia
この時、継之助は自らガトリング砲を操って奮戦、これが『ガトリング家老』といわれる所以です。
当初は新政府軍と互角に戦うも徐々に押されてしまい、継之助は足に流れ弾を受けてしまいます。
そして、その傷が破傷風となってすでに手遅れになってしまいます。
死が近い事を悟った継之助は、従僕に自分を火葬するために火をおこさせ、やがて死去します。
1868年(慶応4年)8月16日没。
享年42。
継之助の遺言に従い大阪経済界の重鎮へ
継之助の従者に外山寅太(とやまとらた)という人物がいました。
流れ弾で負傷し、臨終前の継之助は外山に「武士の世は終わって、これからは商人の時代になる。商人になれ!」と遺言します。
外山は遺言通りに大阪経済界の重鎮になります。
『日本銀行』初代大阪支店長を始め、大阪府吹田市でビール工場設立(後の『アサヒビール』)、『阪神電鉄』初代社長などを歴任します。
また、かつて甲子園球場には外山寅太の銅像がありました。
『阪神タイガース』の名前は社内公募で選ばれた、という説が有力ですが、近年、創業者の外山寅太の『寅』からとった、という説が出てきました。
【ビジネスの裏側】「タイガース」命名異説…「阪神電鉄初代社長の幼名『寅太』がルーツの“信憑性”(1/3ページ) - 産経WEST
歴史好きとしては、外山寅太が球団名のルーツであってほしいところです。