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【人たらし】黒田官兵衛、石川数正、長束正家・・・『豊臣秀吉』の巧妙なスカウト術

豊臣秀吉_花の慶次

出典:花の慶次

『本能寺の変』で織田信長が死んでから、わずか8年で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。
短期間でこの偉業を成し遂げられたのは、優秀な人材をどんどんスカウトしたからなのです。

譜代の家臣がいない

譜代(ふだい)とは代々その主家に仕える事です。
豊臣秀吉は織田信長や徳川家康と違い、下層階級出身で譜代の家臣を持っていなかったため一から家臣団を作らなくてはいけませんでした。

家臣を得る方法は2つ。
加藤清正や福島正則のように幼少から育て上げるか、手っ取り早く優秀な人材をスカウトする事。

秀吉は、

竹中半兵衛(たけなかはんべえ)
黒田官兵衛(くろだかんべえ)
石川数正(いしかわかずまさ)
長束正家(なつかまさいえ)
立花宗茂(たちばなむねしげ)

といった優秀な武将のスカウトに成功します。

石川数正

1585年(天正13年)11月13日、徳川家康軍の最高司令官である数正が突然出奔、秀吉の下へ逃亡します。

この時期、家康は秀吉と和議を結んではいましたが・・・

豊臣秀吉
徳川殿はまだ上洛せんのか?
徳川家康
・・・。

秀吉に反目していた家康は、上洛(秀吉のいる京都に行くこと)要請を無視し、冷戦状態が続いていました。
そんな中での数正の出奔に家康は慌てます。
「数正が熟知している徳川の軍法が豊臣側に知られると勝ち目がない」
家康は慌てて軍法を一新します。

なぜ突然秀吉側に寝返ったのか?

数正は、秀吉と柴田勝家が戦った『賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い』の勝利を祝うために家康の代理として、また、秀吉と織田信雄・家康連合軍が戦った『小牧・長久手の戦い』の講和交渉担当としてなど、徳川家の家臣の中でも秀吉と会う機会が多くありました。

何回か会ううちに秀吉側から恩賞を持ち掛けられたのか、秀吉に惚れ込んでしまったのかはわかりませんが、家康に対し何度も上洛するよう説いた事で「数正は秀吉に通じているんじゃないか?」と、仲間から疑いをかけられるようになります。

そして、その噂を聞いた秀吉は公の場で数正を褒めちぎります。

豊臣秀吉
石川殿は十万石を出してでもほしい人物じゃ!

こういう状況になって肩身が狭くなって出奔したのでしょう。
※出奔の理由は色々諸説あり。

「家康に 掃き捨てられし 古箒(ふるほうき) 都へ来ては 塵ほどもなし」

こんな歌が流行しました。
数正(伯耆守(ほうきのかみ))は豊臣家へ走ったが、秀吉に冷たくあしらわれた、という内容の歌ですが、実際は秀吉は天下統一後に数正に信濃国松本十万石(八万石とも)を与えました。
元同僚の酒井忠次の倍額です。
秀吉に冷遇された、という噂は徳川家が広めたのでしょう。

 

他家の人事に介入

秀吉は天下統一後も優秀な人材を勧誘し続けます。
例えば、上杉家の直江兼続、伊達家の片倉小十郎、徳川家の大久保忠世、本田忠勝など。
皆、秀吉からの申し出を固辞するのですが、天下人から勧誘されるのは誇りで秀吉に好感を抱いた事でしょう。
こうやって他家(敵)の中心人物を籠絡(ろうらく)して味方に引き入れるようなかたちで政権を維持していたようです。

豊臣秀吉
徳川殿、大久保忠世に四万五千石を与えて小田原城を守らせよ。
豊臣秀吉
上杉殿、直江兼続に米沢三十万石を与えよ。

直江兼続はここまで自分を買ってくれた秀吉への義から、秀吉が亡くなった後、豊臣家を守るために家康と敵対するよう上杉家を誘導しました。

より良い待遇を求めて

秀吉の待遇が破格だったので、自ら秀吉へ乗り換える人物もいました。
不敗の名将立花宗茂、高い算術能力を買われて豊臣家の財政を一手に担った長束正家、そして黒田官兵衛。

「簡単に主君を裏切って秀吉の元へ走ったんだなぁ」と思うのは間違いです。
戦国時代、無能な君主は家臣から容赦なく見限られましたし、何より下剋上の世の中でした。
良い奉公先へ移る事は、非難される事でも珍しい事でもなかったのです。
いったん主君を決めたら、他の主君に仕えないという事を「二君にまみえず」と言いますが、これは徳川家の世の中になってから発祥した論理感です。
当時の武将達は現状に満足せず、自分を最大に評価してくれる主君を待ち焦がれていました。
秀吉はこの事をよくわかっていたからこそ天下人になれたのでしょう。